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第56話 片腕でも、鎚は振れる

 ドルクの鍛冶屋の扉を押した。鉄と煤の匂いが鼻を打った。奥の炉に火が入っている。


 片腕のドワーフがパイプを咥えたまま、右手一本で鉗子を回していた。背は私より頭ひとつ低いが、肩幅は同じくらいある。編んだ顎髭が胸元で揺れていた。左腕は肩の付け根から先がない。麻のシャツの左袖は、結んで止めてある。本人は気にしていない様子だった。



「おう、お嬢ちゃ」



 ドルクの言葉が、途中で止まった。パイプを咥え直す動きが、半秒ほど遅れた。視線が、私の左腕に固定された。鞘の副木と、肩に回した三角巾と、固定の白い布。



「お嬢ちゃん、その腕、どうした」



 声色が変わった。



「昨夜、少し」


「少し、で折るかよ。ちゃんと診てもらったのか」


「父です。診療所の」


「ヴィクター先生か。なら問題ねえ」



 ドルクが目線を戻した。元の声に切り替わる。



「で、お坊ちゃんも一緒か。なんだお嬢ちゃん、こんな朝早くからお坊ちゃんと宿屋でしっぽり」



 ドルクの後頭部に、雑巾が飛んできた。



「あんた、いい加減にしなさいよ」



 奥の暖簾を分けて、ミラが出てきた。ドルクの妻だ。背は低いが、肩幅が広い。前掛けの手に雑巾を握り直して、ドルクの脳天を狙う構えだった。


 トールが「うちの母ちゃん、親父より強いっすよ」と言っていた意味が、その立ち姿だけで伝わってきた。



「お客さんの前で下ネタ振らないでって、何回言ったらわかんのよ。子供たちもいるのにさ」


「うるせえ、かあちゃんとだって朝か――」



 ミラの雑巾が、ドルクの口を真正面から塞いだ。



「お客さんの前で言うんじゃないよ、馬鹿!」



 ドルクが布巾の下で「うっせえ」と笑っていた。



「リーラさんっ、おはようっす! カイルさんも!」



 奥からトールが出てきた。革エプロンと汚れたシャツ。炉のふいごの前にいたらしく、煤で頬が黒い。


 両親の雑巾合戦には、何の反応も示さなかった。


 入口の扉が開いて、ミナがフードをかぶって入ってきた。茶髪のツインテールがフードの下から覗いている。腰の双短剣と、ベルトの投擲ナイフが朝日に煌めいた。



「あれ、ミナさんも来たんすか?」


「あんたの母ちゃんに頼まれた野菜籠よ。バカ」


「バカって言わないでほしいっす」


「う、うるさい。バカはバカでしょ」



 ミラがミナの方に振り向いて、雑巾を下ろした。表情がふっと柔らかくなった。



「ミナちゃん、悪いね、いつも。籠は奥の調理場に置いといて」


「はい、ミラさん」



 ミナの声が、ミラの前では普通の少女の声になった。フードの下の目も、刺々しさが消えていた。ミラとは長い付き合いらしい。


 ミナが奥に行く途中で、私を見た。一秒。視線が左腕の副木で止まった。



「姐さん」



 声が、また低くなった。元盗賊の、詰問の声に戻った。



「あんた、何やったの」


「結社に、家を襲われて」



 ミナの口の端が、引きつった。



「結社」



 その一言だけだった。


 それから無言で奥に去り、籠を置いて戻ってきた。フードの下の目が、ノクスを見て、私を見て、カイルを見て、最後にドルクを見た。



 「説明はあとで聞く」目だった。



 トールがミナの様子を見て、首を傾げた。



「ミナさん、なんで急に黙ったっす?」


「バカに説明する元気ないから」


「バカはひどいっす」


「うるさい」



 ノクスがカウンターの上で目を細めた。リーラだけに聞こえる声で呟いた。



「相変わらず、この店は、賑やかだな」


「うん」



 革の手帳の写しを差し出した。焔の循環式の解読図を、一晩かけて書き起こしたものだ。



「おっと」



 ドルクがパイプを口から外して、右手一本で受け取った。粗い指の動きが、紙の角を傷つけないよう、慎重だった。先程までの軽口とは別人の手だった。


 ドルクがカウンターの上に図解を広げた。指が図解をなぞった。式の接続点を追い、循環の分岐を確かめ、出力の配分を読んでいる。



「お嬢ちゃん、これ、本当に全部読めたのか」


「はい。焔の循環の項です」


「式の組み方、これは。五千年前の鍛冶式そのものだ」



 五千年前。ドルクがそう言った。息が止まった。



「祖父の本に、似たものがあったので」



 ドルクがパイプを口に咥え直して、笑った。唇の端だけが上がる、不敵な笑い方だった。



「お前さんの祖父さん、ただの貴族じゃなかったんだろ」


「かもしれません」



 ドルクはそれ以上追及しなかった。図解に目を戻して、指で式の流れを何度もなぞっている。



「試すか。ところで、お坊ちゃん」



 ドルクがカイルに目を向けた。



「腰のそれ、剣だったか?」



 カイルが革紐で腰に括り付けていた、熔けて歪んだ剣身を、ゆっくりと差し出した。ドルクが受け取って、鍛冶台に置いた。パイプを、咥え直す動きが、また半秒、遅れた。



「お坊ちゃん」



 声が低くなった。先程リーラの腕を見た時と、同じ硬さ。



「これ、誰の打ったやつだ」



 カイルが、息を呑んだ。



「師匠の」


「師匠の名前は」


「ロンド」



 ドルクが、パイプを口の端から落としかけて、咥え直した。一秒、二秒。沈黙の中で、炉の音だけが残った。



「あいつの剣だな」



 ドルクの目つきが変わった。煤の顔の中で、目だけが遠くを見ていた。


お読みいただき、ありがとうございました。

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