第55話 「ゆびきり」
玄関の車寄せに、馬車が一台停まっていた。父ヴィクターが厚手の外套を肩に羽織って、御者と荷物の確認をしていた。母エレインは旅用の革鞄を抱えて、ノエルの上着の前ボタンを留め直している。
ノエルが私を見て、駆け寄ってきた。前歯の欠けた笑顔。
「お姉ちゃま、ノエル、ばあばのお家に行ってくる」
「うん」
膝をついて、右腕一本でノエルを抱きしめた。左腕は副木のまま、胴の前で動かない。ノエルの両腕が、足りない左腕を埋めるように、私の首にしっかりと回った。
「お姉ちゃま、約束、忘れないでね」
「ゆびきり、覚えてる」
「全部やっつけたら、迎えに来てね」
「うん。行く」
ノエルの体温が、首筋に伝わってきた。朝の冷たい空気の中で、その温度だけが、確かだった。
母がそっとノエルの肩に手を置いた。
「ノエル、そろそろ」
「うん」
ノエルが私から離れた。母の手を握って、馬車の踏み板を一歩、二歩、登った。途中で振り返って、もう一度、私を見た。私が手を振った。ノエルも、小さな手を振り返してきた。
父が御者の隣に座って、手綱を取った。母とノエルが馬車の中に消えた。窓から、ノエルの金色の前髪だけが見えた。
「リーラ」
父が低く声をかけた。
「お前は、お前の道を行きなさい。家のことは、私と母さんで守る」
「うん」
「何度も言うが、無理だけはしないでくれ」
「うん」
父が手綱を振ると、馬が動いた。車輪が石畳を踏む音が、玄関の前から、ゆっくりと遠ざかっていった。ノエルの前髪が、窓の中で揺れている。やがて見えなくなった。
ふと振り返ると、カイルが玄関の柱にもたれて、馬車を見送っていた。脇腹を片手で押さえて、まだ青い顔をしていたが、目は確かに前を向いていた。
* * *
自分の部屋に戻った。旅支度は、ほとんど要らなかった。前世の癖で、出かけられる装備は常に革袋に詰めてある。
母から渡された薬草の小袋、ノクスの干し魚、書きかけの解読図、それから、昨日カイルが渡してくれたまま枕元に置いていた、ノクスの首輪の替え。
それだけだった。
母の薬草園を、窓から見た。緑が朝日に光っている。母の手で整えられた畝が、もう何年もの形を保ったまま、そこにあった。
ここを、あとにする。
決めたことだった。
それでも、胸の奥が、痛かった。
廊下に出ると、カイルが革鎧を着直して、玄関の方を向いて立っていた。鞘のない剣身を腰に括っている。
「行くか」
「うん」
マルタが廊下の端で、深く頭を下げた。
「リーラお嬢様。お屋敷は、私たちが守ります」
「ありがとう」
マルタの目が、少しだけ濡れていた。
朝の光が、白い大理石を白く照らしていた。父の血の跡は、もう、母とマルタが拭った後だった。
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