第54話 「守りきれなかった」
客間の隣の来客用の寝室で、カイルはベッドに横たわって眠っていた。
母が支度を整えた部屋だ。
父の縫合で出血は止まっていたが、それだけでは塞ぎきれない深さの裂傷だった。革鎧を外した上半身に、三箇所の縫合線が走っている。父の手は確かだが、私の力で塞げば治りはずっと早い。
椅子を引いて横に座り、薬草の煎じ液で濡らした布を脇腹の傷口に当てた。布が赤く染まり、カイルの息が小さく漏れる。
唇だけで、声にならないほど短く治癒の詠唱を紡いだ。窓辺でノクスが目を閉じ、丸くなる。傷の縁が震え、裂けた皮膚が内側から寄り合っていく。血の赤が薄れ、三箇所の傷を順に閉じていった。
こうやって、使いたかった。
五千年前は。フィンを助けられず、あの力は世界を壊すだけだった。今は、この人の傷を閉じている。
最後の傷が塞がった時、カイルの目が薄く開いた。焦点が合うまでに数秒かかった。青みがかった灰色の瞳が、私を見上げている。
「リーラ」
「うん」
「すまない。守りきれなかった」
声がかすれていた。喉が乾いている。
それでも最初に出た言葉がそれだった。目に涙が滲んだ。
止められなかった。一粒、カイルの胸に落ちた。
「泣くな」
低い声だった。
「泣いてません」
「嘘だ」
カイルが笑った。
力なく。口の端が少しだけ上がって、すぐに閉じた。
それから目を閉じた。呼吸が深くなって、眠りに落ちていく。
涙を拭った。何度拭っても新しく溢れてくるので、諦めた。
カイルの寝顔を見下ろしたまま、椅子にもたれた。瞼が重かった。
今日一日で使った力が、体の底に錘のように溜まっている。ノクスが窓辺から降りてきて、私の膝に飛び乗った。
前足でスカートの皺を二度踏んでから丸くなった。爪は出していなかった。
何も言わなかった。目を閉じた。
* * *
窓から差し込む光で目が覚めた。
首が痛い。椅子で寝たせいだ。
カイルはまだ眠っているように見えた。呼吸は静かだった。
「お前、寝言で『フィン』って呼んでたぞ」
カイルが目を閉じたまま、低く言った。眠っていなかった。
体が、一瞬で固まった。
「誰の名だ」
返事を探した。喉が動かなかった。
「古い知人です」
「そうか」
カイルはそれだけ言って、また目を閉じた。聞き返さなかった。
それが、一番、応えた。
ノクスが窓枠の上で前足を舐めていた。
「行くぞ」
「うん」
廊下に出た。
階下から、母の声と、もう一つ、ノエルの小さな声が、断片的に届いた。
旅装の支度が、もう始まっていた。
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