第53話 「お前は私の娘だ」
父と母が客間に戻ってきた。父は包帯の下で胸が引きつるはずなのに、背筋はまっすぐだった。母の肩に手を置いて、二人並んで私の前に立った。
「リーラ、聞いてほしい」
父の声は低く、穏やかだった。いつもの、患者に病状を説明する時の声だ。
「ノエルを、母方の祖母の家に預ける」
母が続けた。
「あの子には、平和な場所が要る。この件の記憶が薄れるまで」
祖母の家。ルグランド王家の地図にも載らない辺境にある。母が子供の頃に過ごした場所で、薬草学の基礎を学んだ場所でもある。結社の手は届かない。
「明朝発つ。私と母さんで送る。しばらく、向こうで過ごす」
父が言った。
ノエルが私の首から離れようとしなかった。手が布を握ったまま動かない。
「ノエル」
母が優しく呼んだ。
「ばあばのお家に行こうか。畑があって、川があって、お歌うたっていいのよ」
ノエルの手が、ほんの少しだけ緩んだ。
「お姉ちゃまは?」
私は小指を見せた。さっき絡めたばかりの、右手の小指を。
ノエルが小さく頷いた。約束は、もうしてある。
ノエルを膝に抱いたまま、父と母を見た。立ち上がる体力は、今夜の私にはなかった。
右腕一本でノエルの抱えて、まっすぐに二人の目を見た。
「お父様、お母様、聞いてください」
決めていたことだった。だから言葉はまっすぐ出た。地下水道で白い焔を放った瞬間から、もう戻れないと分かっていた。
「明日の朝、私はこの家を出ます。結社を全部潰すまで、戻りません」
母の顔が強張った。父は目を閉じた。
「ノクスと私がここにいる限り、結社は家を狙い続けます。私がここにいれば、結社はまたこの家を襲います。私が離れれば、結社の目は私を追う。家は安全になります」
「リーラ」
父が目を開けた。
母が唇を噛んだ。目の縁が赤くなっていた。
「お父様は診療を続けてください。お母様は薬草園を。普段通りに過ごすのが、家を守る最善の事です」
長い息を、父が吐いた。顔には出さなかったが、包帯の下の傷が痛んだはずだった。
「分かった。お前は、好きな場所で戦え」
母が一歩前に出た。私の頬に手を置いた。温かかった。薬草の匂いがする手だった。
「リーラ、無理だけはしないで」
涙が頬を伝っていた。母の手で拭われた。
母がじっと父の方を見つめた。
「女が本当に愛せる男は、一人だけよ」
父の耳が赤くなった。母は構わず続けた。
「カイル殿下のこと、大事になさい」
「お母様、そういうのじゃないから」
頬が熱かった。
でも、なぜ熱いのか分からなかった。
感謝なのか、信頼なのか、それとも、名前のつかない何かなのか。
分からないまま、胸の奥がざわついていた。
母が笑っていた。泣いた後なのに、どこか遠くを見ていた。父と出会った頃のことでも、思い出しているのだろうか。
父が、もう一度口を開いた。
「リーラ。怪我をするな。絶対に無理をするな。困ったことがあったらいつでも相談しろ。お前は私の娘だ、一人で悩むなよ」
いつもより、言葉多かった。でもが、父様らしいと思った。
ノエルが小指を立てて、確かめるようにこちらに見せた。
約束は、もうしてある。
ノエルが笑った。欠けた前歯がちらりと見えて、えくぼが両方の頬にできた。
「お姉ちゃま、それまで、たくさんお手紙書くからね」
「お姉ちゃまも、書くね。お返事ちょうだいね」
「うん」
ノエルの手が離れた。
母がノエルを抱き上げた。小さな体が母の腕に収まる。
ノエルの目がまだ私を見ていた。手を振った。小さな手が振り返した。
父が私の肩に手を置いた。何も言わなかった。
ノクスが足元に来ていた。尾が私のふくらはぎに一度だけ触れて、離れた。
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