第52話 「誰も眠れない朝」
朝食には早すぎる時刻だった。空はもう明るんでいたが、誰も眠れる状態ではなかった。
客間のテーブルに、母が簡素な食事を並べた。
温め直したスープとパン。
昨日の残りの肉。
ノエルの前にも同じものが置かれた。
ノエルのフォークが動かなかった。パンを千切って口元に持っていく動きを三度試みて、三度ともテーブルに戻した。
スプーンに持ち替えてスープに口をつけようとして、父の包帯が視界に入り、スプーンを握ったまま固まった。
「ノエル、お父様は大丈夫よ。ヤロウの薬草で、傷がもう塞がっているから」
母が何度目かの声をかけた。
ノエルが顔を上げた。目は母を見ていたが、焦点がどこか遠くにあった。
「ノエルね、もう、お外でうたうたいたくない」
声が小さかった。
いつも歌っている。
朝起きてから夜寝るまで、何かしら口ずさんでいる子だ。
虫の数え歌の三番とか、母が教えた童謡の即興アレンジとか。
薬草園で、廊下で、客間の前で。
その歌が消えた。
テーブルの下で、ノエルの膝が小刻みに揺れていた。
父が母に目を向けた。
母が小さく頷いた。
私はスプーンを握ったまま、動けなかった。
食事が終わった後、客間に残った。
ノエルが私の膝に登ってきた。
両腕を首に回して、しがみついた。
小さな手が首筋の布をぎゅうと握っている。
「お姉ちゃま、もう、いなくならないで」
「いなくならない」
「ほんと?」
「ほんと」
ノエルの体がまだ震えていた。
大きな震えではない。
抱きしめた腕にだけ伝わる、細かい震え。
でも止まらなかった。
「お姉ちゃまは、ノエルを、守ってくれる?」
「守る」
「悪い人、もう来ない?」
答えられなかった。
嘘をつきたくなかった。
「もう来ない」と言ってしまえば楽だった。
でもそれは嘘だ。
この子が聞いているのは、嘘か本当かではない。
安心させてほしいのだ。
「お姉ちゃまが、悪い人、全部やっつける」
ノエルの手の力が少し緩んだ。
「全部?」
「うん。全部」
「ノエルのこと、守ってくれる?」
「守る。絶対」
ノエルが小指を差し出した。
小さな指だった。
震えていた。
絡めた。
右手の小指を、ノエルの小指に。
「ゆびきりげんまん」
ノエルの声が歌になった。
涙で濡れた声。
でも、歌えた。
「うそついたら」
「はりせんぼんのーます」
最後だけ、二人の声が揃った。
ノエルが顔を上げた。
涙の跡が頬に筋を作っていた。
鼻水が少し出ていた。
私の指で拭った。
ノエルが少しだけ笑った。
欠けた前歯がちらりと見えた。
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