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第51話 「血が止まらない」

 玄関の扉は半開きのままだった。蝶番が日中の侵入で歪んでいて、押すと軋む音がする。


 廊下の白い大理石に、血の跡が乾きかけて広がっていた。鉄錆のような匂いが、薬草の青い香りに混じっている。


 応接間に父ヴィクターが寝かされていた。長椅子の上に、血で染まったシーツ。


 母エレインが床に膝をついて、父の胸の包帯を巻き直しているところだった。母の白いエプロンが、左半身全て、赤に近い茶色に染まっている。



「お母様」



 声が、私の喉から、勝手に出た。母が振り返った。


 化粧をしていない顔の頬に、汗と血と泥が筋を作っていた。


 何時間、ここで動き続けていたのか。その時間の長さが、母の顔色から伝わってきた。



「リーラ!」



 母の声が、震えた。


 それから、カイルの腕の中のノエルを見た。



「ノエルっ!」



 母が立ち上がりかけて、膝が崩れた。何時間も床に膝をついていたのだ。立てなかった。


 カイルが片腕で私を支えたまま、もう片腕でノエルを母の腕に渡した。



「お母様!」



 ノエルが母の胸に飛び込んだ。母の腕がノエルを抱きしめた。震えていた。声が出なかった。それでも、抱き返す力だけは、母にまだ残っていた。


 母の視線が、ノエルの肩越しに、私とカイルを順に捉えた。私の左腕の鞘の副木。カイルの脇腹に滲んだ血。額の擦り傷。煤と土に汚れた服。



「あなたたち、その傷」



 母の目に、新しい涙が浮かんだ。



「お父様の処置が終わったら、次はあなたたちよ。動かないで」



 私はゆっくりと頷いた。カイルは黙ったまま、剣帯から熔けた剣身を外して床に置いた。


 長椅子で、父が薄く目を開けた。



「エレイン、薬棚から、ヤロウとオオバコを、もう一度」



 声がかすれていた。ここまで母を指示で支えながら、なんとか命を繋いできたのだろう。医者の本能。自分が患者でも、まず処置順を組み立てる人だった。


 母が、ノエルを片腕に抱いたまま、もう片方の手で薬棚へ向かおうとした。


 膝がまだ震えている。



「お母様、私が」



 マルタが廊下の奥から駆け込んできて、薬棚に走った。乾燥ヤロウの瓶を取り出し、片手で蓋を外しながらもう片方でオオバコの束を掴んだ。母とマルタの間で何度も繰り返してきた処置の動線だった。


 カイルが私を長椅子の端に降ろし、父の上半身を慎重に持ち上げ直して、診療向きの角度に直した。革鎧の肩に父の血がべったりと染みた。



「ヴィクター殿」



 カイルが低く呼んだ。



「カイル殿下。娘を、連れ帰っていただいたのですか。なんとお礼を申し上げればよいか」



 カイルの肩が一瞬止まった。殿下、と呼ばれたことに。



「ヴィクター殿。俺はただの冒険者として来ています」



「存じております。ですが、礼だけは正しく申し上げたい」



 ――もう調べたのね、お父様。



 母の視線を感じた。


 振り向くと、母がこちらを見つめていた。


 父が、長い息を吐いた。何時間も詰めていたものを、ようやく緩めた息だった。


 自分の胸の裂傷に指を当てている。


 重傷なのに、医者の手が止まらない。


 ノクスが肩から飛び降りて、金色の目を私に向けた。



「お父様、ノクス様の加護を」



「頼む」



 唇だけで、古い言語の一節を紡いだ。声にならない程度に、短く。


 ノクスが目を閉じた。私の魔力が父の胸に流れ込む。傷口の縁が震え、裂けた肉が内側からゆっくりと閉じ始めた。


 母が煎じ薬の椀を父の口元に運んだ。父が一口飲んで、また傷口を確かめた。


 皮膚が閉じていく。呼吸が深くなる。顔色が戻る。



「大丈夫だ。このくらいなら朝までに立てる」



 父が母に笑いかけた。母は笑い返さなかった。


 代わりに絹糸の針で、念のための縫合を一つだけ入れた。手が震えていた。


 ノクスが前足を引いて、長椅子の端で体を丸めた。



「ノクス殿、毎度のことながら助かる」



 父がノクスに頭を下げた。ノクスは尾をピンと立てて、父の足元でくるりと一周回り、父の脚にすりっと身を寄せた。礼を言われてまんざらでもないようだ。


 私はそれを見守った。十八年、ずっと嘘をついていた。もう悪いとも思わなくなっている。それが少しだけ怖かった。


 父が長椅子の上で身を起こした。


 胸の包帯を確かめてから、次に、私の左腕に目を留めた。



「リーラ。腕を診せろ」



 医者の声に戻っていた。


 カイルが鞘の副木を解いた。父の指が私の左腕の骨折部を丁寧に辿った。


 腫れの位置、ずれの方向、骨片の有無。一通り確認して、頷いた。



「単純骨折だ。ずれも軽い。母さん、副木と石膏巻きの用意を」



 父が骨を整え直した。私は息を呑んだまま、声を出さなかった。


 父の手付きは、迷いがなかった。新しい副木と石膏で、左腕が固定された。鞘よりも軽く、安定していた。



「三週間は外すな。完全に元通りになるには、もう少しかかる」



 父が一呼吸置いて、続けた。



「ノクス様の加護は強力じゃが、急ぐと組織が歪む。骨は特にそうだ。一気に直すと、ずれたままくっつく。指の感覚が戻らなくなることもある」


「肉も同じだ。深い傷を一度に閉じると、内側で皮が縒れる。後で痛みが残る。少しずつ、自然の治りに添わせて、回復を早める程度に留めなさい」



「はい」



 父の指が私の手首に触れた。脈を測る指だった。


 患者を見る目で、私を見ていた。



「焦るな。急いて直した骨は、また折れる」



 だから今夜、私が父の胸の傷に通せた魔力は、最低限だった。


 出血を止め、皮膚を寄せ、命を繋ぐところまで。それ以上は、組織を傷める。父はそれを知っていて、自分の医者の手で、残りの仕上げを引き受けた。


 カイルの脇腹も同じだ。今夜は父のヤロウ薬で十分。深い裂傷を魔法で一気に閉じれば、後で必ず痛む。少しずつ、日を分けて閉じていけばいい。


 それに。もう、魔力に余裕がない。


 父の治療で底まで使った。残りは、明日の朝までに、薬草の処方で少しずつ戻すしかない。


 父の目が、次にカイルへ向いた。



「カイル殿下も。脇腹を診せてくれ」



「私は」



「あなたが倒れたら、誰が娘を守るのです。どうか、診せてください」



 カイルが渋々上着を緩めた。父が傷を確かめている間に、母がもう湯と布を運んできていた。


 言葉を交わした気配はない。二人の動きに無駄がなかった。阿吽(あうん)の呼吸、というのだろう。


 二百年生きて、私にはこれがなかった。


 誰かと言葉なしで動けるということが、どれだけ長い時間の上に成り立っているか。


 ノエルが椅子の上で膝を抱えて丸くなっていた。目を開けているのに、何も見ていない。


 廊下の奥から、マルタが小走りで戻ってきた。涙の跡が頬に残ったままだった。



「シャルロット様は、療養室でようやくお眠りになりました。出血は止まっております」



 マルタが涙ぐんだ。



「あの方が、踊り場で賊を三人、お一人で倒しました。旦那様と奥様を命を賭してお守りくださいました。ご自身も深い傷を負われていたのに、最後の一人を斬り伏せるまで、膝をつきませんでした」



 なんの義理もないのに。



 ――なんで



 シャルロットがいなければ、父も母も死んでいた。私が留守の間、この家を守ったのは、昨夜血まみれで門の前に倒れていた人だった。



 涙が止まらなかった。



 カイルが命がけでノエルと私を連れ帰ってくれた。



 シャルロットが血まみれで父と母を守ってくれた。



 父と母は言葉もなく息を合わせて私たちを手当てしてくれた。



 マルタが泣きながらシャルロットの傷を看てくれた。




 私は強い。この場の誰よりも。なのに皆が私を助けてくれる。私のために傷ついて、血を流してくれる。


 私は何をしていた。二百年、ずっと逃げていた。強いくせに、一人で閉じこもって、誰も守ろうとしなかった。




 間違っていた。今度は私が守る。この人たちを。




 もう、昔の自分を許せなかった。



「後でお見舞いに伺います」



 声が震えていたと思う。


 マルタが小さく一礼した。


お読みいただき、ありがとうございました。

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