第50話 「左腕が」
結社員は、誰もいない。ゴーレムの残骸だけが転がっている。
拠点の隠れ家も、破壊されていた。焔の余熱だけが、空気に残っていた。
ノクスは、私の肩の上に戻っていた。鎖骨の窪みに顎を乗せて、瞼を半分落としている。前足は体の下に折りたたまれて、尾の先だけが、首筋に沿って力なく垂れていた。
戦いが終わると、いつもここに来る。ノクスが安心して身を預けるのが常だった。
――いつも通りの締めくくり。
表向きは、魔法を撃ったのは魔法猫ノクス。私は、その助手。
直後、膝が、崩れた。地面に体ごと倒れ込み、腕で受け身を取ろうとしたが力が入らない。
視界の端が黒く滲んでいる。耳の奥で誰かが歌っているような遠さがあり、体の中の魔力が空になっていた。
――動けない。
指一本動かなかった。喉から声を出そうとしても、唇が震えるだけだった。
山脈を一つ消すような魔法を放った後の、五千年前と同じ感覚。頬の脇のノクスが、リーラだけに届く声で呟いた。
「やっぱり、こうなったか」
「ノクス」
かろうじて声が出た。
蚊の鳴くような音量。
「根源語級を放てば、お前は半日は動けん。五千年前と同じだ」
「うん」
これが白い焔の代償だった。山脈を消すほどの魔法を体一つで放てば、その後は数時間から半日、子供のように動けなくなる。
そのために、前世のリーラには強敵の前では、前衛が必要だった。詠唱中の私を、敵の一撃から守る、剣の使い手が。
――フィン。
五千年前の光景が、視界の黒の中で浮かんだ。私を庇ったフィンが岩壁に叩きつけられて、動かなくなった。
詠唱を止められないまま、私はそれを見ていた。
――だから、もう、誰も好きになりたくなかった。
カイルの足音がした。よろめきながら、壁際から駆け寄ってくる。
「リーラ!」
カイルの腕が、私の体を抱き起こした。剣の鞘が脇腹に当たって、革の匂いが鼻に届いた。
「カイル、私、動けない。左腕も、折れてる」
「分かった」
カイルの声に、迷いはなかった。私の右腕を自分の肩に回して、体を預けさせた。
左腕は、胴の前で動かないまま揺れた。歪んだ剣身を腰の革帯に挟み込んで、空いた手で私の腰を支える。
「お前は歩かなくていい」
――また、この人も死ぬのだろうか。
天井の一部が、剥がれて落ちた。空洞は半ば崩壊している。
けれど、白焔の余熱で抜けた天井の隙間から、月明かりが斜めに差し込んでいた。石柱の陰から、マントの塊がもぞもぞ動いた。
隙間から淡い緑の目が覗いた。
「お姉ちゃま、?」
「うん。おいで」
ノエルがマントから抜け出した。顔が涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
そして、両手を広げて、走ってきた。
カイルに支えられた私の、胸に飛び込んできた。右腕で、ぎゅっと抱きしめた。
十二歳下の妹なのに、姉の足りない左腕を埋めるように、自分から強く、強く、抱きついてきた。
「お姉ちゃま、っ、お姉ちゃま、お姉ちゃまっ」
何度も呼んだ。何度も。
小さな手が背中の布を握った。ぎゅうっと。
離さない、という意志だけが、その手にあった。
目に涙が滲んだ。
どっちがどっちを守っているのか、分からなかった。
右腕一本で、強く、強く抱きしめた。ノエルが顔を上げた。
鼻水と涙でぐちゃぐちゃの顔。それでも、笑った。
「お姉ちゃま、ノエル、頑張ったよ」
「うん」
「悪い人にね、噛みついた」
「うん」
「あと、ね、つばも吐いた」
笑った。
涙が零れた。笑っているのに止まらなかった。
「ノエル」
「ノクス様とお姉ちゃまみたいに、強くなりたいの」
目から涙が一粒、ノエルの頬に落ちた。ノエルがその涙を、小さな指で拭ってくれた。
「お姉ちゃま、泣いちゃ、めっ」
「ごめん」
「ノエルがね、お姉ちゃま、守ってあげるからね」
頭を撫でた。金色の髪が指の間を通った。
「うん。ありがとう」
背後で、天井が崩れる音が迫っていた。
カイルが、私たちを見ていた。私を肩で支えたまま、熔けて歪んだ剣身を腰の革帯に挟んだまま。
目が、何かを呑み込んだような表情をしていた。
「行こう。ここは、危ない」
「うん」
カイルが片腕で私の腰を支えたまま、もう片方の腕でノエルを抱き上げた。ノエルがカイルの首にしがみついた。
「お姉ちゃま、ノエル、もう離れないからね」
「うん。離さない」
カイルに支えられた私の右手が、ノエルの背中に触れた。六歳の体が、私の指の腹で震えているのが分かった。
ノクスがノエルの足の指を、前足でちょんと突いた。ノエルが、ふっと笑った。
「ノクス様、ありがとうね」
「ニャ」
白焔の余熱で抜けた天井の隙間を、カイルがノエルと私を一緒に抱えて、よろめきながら登った。月明かりの下に出た。
夜風が汗と煤の匂いを攫った。早く帰りたかった。
父も母も待っている。けれど、体が言うことを聞かなかった。
カイルが大きな木の根元に背を預けて座った。私はカイルの膝に頭を預けて、地面に身を伸ばした。
ノエルはマントに包まれて、私の右脇に丸まっている。小さな手が私の右手の指を握ったまま、寝息に合わせて緩んだり、強くなったりしていた。
カイルが、腰の剣帯から鞘だけを抜いた。中身を失った革と鋼の鞘。
固くて、まっすぐで、長さもちょうど良かった。
「リーラ、少し痛むぞ」
「うん」
カイルの手が、私の左腕に触れた。骨が内側で擦れる音がして、息が止まった。
鞘を腕に沿わせて、さっきマントを裂いて作った帯で、二箇所、しっかりと縛り直した。剣を失った鞘が、骨を支える副木になった。
手付きが慣れていた。王宮育ちは応急処置も叩き込まれているのだろう。
帯を結ぶ指先の、布越しに伝わる体温が、ほんの少しだけ痛みを和らげた。
「ありがとう」
「礼はいい」
カイルが私の頭を、膝の上で少しだけ整え直した。手の腹が、髪の上を一度だけ撫でた。
それから手を引いて、警戒の姿勢に戻った。
頭の上で、カイルが熔けて歪んだ剣身を、両膝の間に立てかけていた。座ったまま、警戒は解いていない。
鞘には戻らない剣だった。
「カイル、私の腰の革袋」
「これか」
カイルの手が私の腰の小さな革袋を見つけて開いた。中には乾燥した薬草の束が三種類。
母エレインが私の十二歳の誕生日に手渡してから、出かける時は必ず腰に下げている袋だった。
「青いラベルのを、お湯に。水筒のお湯が冷めかけてる頃合いね」
「分かった」
カイルが水筒を取り出して、薬草を一摘み入れた。湯気の薄れた水に、緑がゆっくり広がっていく。
母の調合だった。
乾燥オリーブ、ハーニア葉、それから三番目の、母は名前を教えてくれなかった、秘密の一本。
――魔力の回復処方。
舌の上で苦みが広がった瞬間、体の芯に小さな光が灯ったのを感じた。空になっていた器の底に、ほんの一滴ずつ、何かが滴っていく。
三種類の薬草が連動して、私の体内で枯渇した魔力の経路を再開させていた。母が私のために、十二歳から研究を重ねて完成させた処方だ。
口に出して言うのは。別の言葉だった。
「元気になる」
「お母様の調合か」
「うん。私が無理をした時のために、ずっと前から作ってくれていたの」
カイルが何も聞かなかった。
ただ、もう一口、水筒を私の唇に当てた。少しずつ、右手の指先に感覚が戻ってきた。
次に足首。母の薬草のおかげで、いつもより早く体が動き始めている。
完全に戻るには半日かかる。
左腕は別だった。
骨が折れている。薬草でも、魔法でも治らない種類の怪我だった。
「家に、帰ろう」
カイルが短く言った。
「うん」
これ以上の戦いができる体ではなかった。ノエルを家に届ける。
父と母の安否を確かめる。それが、今、出来る全てだった。
カイルが片膝を立てた。眠ったままのノエルを抱え直し、もう片方の腕で私を抱え上げた。
私の重さで膝が一度震えた。それでも、立った。
夜明けが近かった。東の空の底が、灰色から薄い藍に変わりかけていた。
三人。いや、ノクスを入れて四人とも、何も話さなかった。
服が煤と血で汚れていた。カイルの腰に、鞘に入らない歪んだ剣身が革紐で括り付けてあり、ノクスが肩に戻ってきて、尾の先だけがまだ揺れていた。
帰り道を、カイルの腕の中で揺られながら進んだ。この人は、私を助ける義理なんてなかった。
たまたま同じ敵を追っていただけの、ただの仲間だ。王子の身で、結社の追手がかかっている。
自分一人でも精一杯のはずなのに。それなのに、この人は命がけで私とノエルを守ってくれた。
揺れるたびに、カイルの心臓の音が背中に伝わった。速かった。
疲れているのだ。それでも足は止まらない。
「カイル」
「ん」
「ありがとう」
少し間があった。
「当然のことをしたまでだ」
すぐ近くで、カイルの耳の先が赤くなっているのが見えた。
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