第49話 「ノエルはどこ!?」
東の支流を走り抜けた先に、空洞があった。天井が高い。
古代下水道の集水槽だったのだろう。石柱が四本、円形に立っている。
壁に苔と地衣類が張り付いて、松明の光を受けて濡れた緑に光っていた。
中央にノエルがいた。石柱の一本に、縄で括りつけられていた。手首と胴を巻いて、背中で結ばれている。
金色の髪が乱れて頬に貼り付いている。頬に涙の筋。
周囲に五人。黒い外套。短剣と杖。松明を二本、壁の窪みに差している。
「ノエル」
声を出しかけて、止めた。距離がある。飛び込めば結社員がノエルを盾にする。
カイルが隣に来た。
「行くか」
カイルが言った。
「行く」
空洞に踏み込んだ。五人が同時にこちらを向き、松明の明かりが顔を照らす。結社員の目が細まった。
「来たか」
先頭の男が杖を構えた。術式が走る。空気が歪んだ。唇が動いた。声にならない古い言語が一節、漏れた。
ノクスの口が同時に開いた。声の形だけを真似る。
魔力は私のもの。外から見れば猫が詠唱して黒紫の光を放ったように見える。
光が先頭の男を貫き、壁に叩きつけて崩した。
――術式の継ぎ目が、自然に組み上がっていく。
教わってもいない応用の節が、口の中で勝手に流れる。考えるな、と内側の声がした。今は戦闘中だ。
カイルが右に飛び、二人目の短剣を剣で弾いて三人目の腹に蹴りを入れた。重心の低い、王宮剣術の踏み込み。
四人目が杖を向けてきた。術式が走りかける前に唇だけで潰す。焔が四人目の杖ごと腕を焼いて、悲鳴が空洞に反響した。
五人目。最後の一人。体格が違った。他の四人より頭一つ分高い。黒い外套の下に分厚い革鎧を着ている。
立ち方が、他の四人とは違っていた。指揮を執る側の構えだった。
こちらを見た。
正確には。肩のノクスを見ていた。
目が細い。
「お前、九番目候補で間違いないな」
ノクスは答えなかった。喉だけ低く鳴らした。否定でも肯定でもない、ただ猫らしい唸り。
指揮役の男の視線が、ノクスから、一瞬だけ私に滑った。すぐ戻った。
「あの黒紫の焔は、猫が放った」
男は疑っていないようだった。
私は、目だけで応えた。
カイルは反対側で三人目を壁に叩きつけていた。金属がぶつかる音と怒号が重なって、こちらの声は届いていないようだった。
指揮役の男の口が開いた。何か続けようとした。
声にならない詠唱が、先に届いた。焔が指揮役の男の胸を貫いた。言葉の途中で、体が灰になった。
声の残響だけが石壁に当たって消えた。
ここまでで五人。全員が動かなくなっていた。
「ノエル」
縄に駆け寄り、結び目に指をかけたが解けない。一言呟いて焼くと、繊維が焦げて千切れ、ノエルの体が前に倒れかけた。受け止めた。
ノクスの耳が空洞の奥に向き、尾が一度だけ床を打った。低い唸り。
――まだ、いる。
視界の奥、松明の届かない闇の中に、もう一つ気配があった。息を殺している。
「ノエル、あの石柱の陰に隠れて。目をぎゅっと閉じて、耳を塞いで」
ノエルの顔が涙でぐしゃぐしゃだった。鼻水が唇の上に光っている。でも目を見開いて、私を見ていた。
「お姉ちゃま」
「ここにいてね。お姉ちゃまが呼んだら、出ていいから」
カイルが頷いた。空洞の壁の奥。自然に窪んだ壁龕のような場所にノエルを座らせた。マントを羽織らせて、頭から包んだ。
「うん」
小さな声だった。マントの中で丸くなった体が、まだ震えていた。
カイルがノエルから離れた。剣を構え直して、私の前に戻った。
空洞の奥から、笑い声が聞こえた。
隠れていた男が出てきた。六人目。
五人組とは装備が違う。長い外套の下に金糸の刺繍入りの黒装束。
目が、笑っていた。
「これで終わりだ」
男の手に黒い宝玉があった。地面に叩きつけた。宝玉が砕けた瞬間、地下水道の天井が震えた。
奥から、地の底を引き摺るような音が響いた。石壁が軋み、苔が剥がれ落ちる。
集水槽の石柱が、動いた。
四本の石柱のうち二本が根元からひび割れて、岩と砕石が浮き上がり、空中で組み合わさっていく。石のゴーレムだった。
天井を擦る巨体。頭部がない。胴体だけが石柱と壁の破片で構成され、腕が二本、それぞれ人間の胴ほどの太さで垂れ下がっている。
胸の中央に黒い宝玉が脈打っていた。核だ。
結社の召喚式が起動した。ノクスの声がした。
リーラだけに。
「やれやれ、古代の番人を起こしたか」
ゴーレムの腕が振られた。
視界の端で、カイルが剣を構えた。咄嗟に受けようとする。
剣と石腕が接触した瞬間、金属の悲鳴が空洞に反響した。カイルの体が弾かれた。
ノエルとは反対側の壁に叩きつけられた。
体が壁に沿って滑り落ち、頭が傾いて目が半分閉じている。胸が冷たくなった。
ノエルはマントに包まれて石柱の陰。カイルは壁にもたれたまま、目が薄く開いているだけ。両方とも、私を直接見ない。
一歩、前に出た。
開いたのは、唇だけではなかった。口が、大きく開いた。
声に出した。古代魔法の根源語が、地下水道の壁を震わせた。詠唱は短かった。一節だけ。
それでも、一節を歌い切るには、息が要る。ゴーレムの拳が、先に届いた。
石の拳が、視界の左側から振り下ろされた。左腕に、鈍い衝撃。
直後、嫌な音がした。骨が、内側で折れる音だった。
体が横に弾かれて、壁にぶつかった。口の中に鉄の味が広がった。左腕が、おかしな角度で胴の前に垂れていた。
ゴーレムが、二撃目の拳を振り上げた。
――間に合わない。
その時。
ガラ、と、壁の方で石が崩れる音がした。カイルだった。額に血の筋があった。膝が震えている。
それでも、剣の柄を握り直して、立ち上がっていた。一歩、二歩。
倒れた私とゴーレムの間に、滑り込んできた。振り返った。
目が私の左腕に落ちた。おかしな角度で垂れた腕を見て、顔色が変わった。
「リーラっ、下がれ!」
声が裂けていた。今まで聞いたことのない声だった。
背中を向けた。ゴーレムに正対して、剣を構え直した。
「ノクス殿! 続けろ。早く!」
肩の上で、ノクスの低い声が耳元に届いた。耳を伏せて、金色の目が私だけを見ていた。
ゴーレムの二本目の腕が、振り下ろされた。カイルの剣が、石腕を受け流した。今度は弾かれなかった。
剣の腹で外側へ流して、返す刃が、腕の継ぎ目に入った。
石と石の隙間、結合部の薄い一点。砕石が飛び散った。
ゴーレムの左腕が、肘から先で崩れ落ちた。石の塊が床を打つ音が空洞に響いた。
カイルは止まらなかった。
踏み込みが速かった。
今までギルドで見せていた動きとは、別物だった。王宮剣術の真の踏み込み。重心が低く、剣先がぶれない。
胸の宝玉を狙った。剣先が石の外殻に当たって火花を散らす。一撃では割れない。二撃、三撃。表面に亀裂が走った。
ゴーレムの残った右腕がカイルを薙ぎ払おうとした。カイルは下がらなかった。
下がれば、詠唱中の私が潰される。
「ノクスっ」
歯の隙間から、初めて声が漏れた。背中はまだこちらに向いていた。詠唱は止めなかった。
最後の一節に、もう一つ言葉を重ねた、「内なる者は、除く」
ノクスが、肩で口を開いた。私の唇に合わせて、声の形だけを真似る。
最後の一節を、血と一緒に吐き出した。空気が、白くなった。
次の瞬間、焔が空間ごと満たした。白い焔だった。
石が溶ける温度の光が、空洞を呑み込んだ。ゴーレムの石の体が白熱して、宝玉が砕けた。
巨体が崩れ落ちる。石柱だったものが、ただの瓦礫に戻っていく。
結社のリーダーの金糸の刺繍が一瞬光って消えた。衝撃波が、外側へ広がった。
ノエルのマントが、白光の縁で揺れた。焦げなかった。残った石柱が、衝撃を受け止めていた。
カイルの体が、後ろへ弾かれた。背中から空洞の壁にぶつかって、ずるずると床に滑り落ちた。
剣身が歪んでいた。ゴーレムの石を何度も叩いたせいで、刃がこぼれて鍔元まで罅が入っている。そこへ白い焔の余熱が走り、鋼が部分的に熔けて、橙の縞を残したまま波打って固まっていた。
王家の名剣が、もう、剣の形をしていなかった。
石柱と壁は、揺れただけで、崩れなかった。
一秒後、地下水道は静寂だった。
瓦礫だけが、ゴーレムのいた場所に残っていた。ノエルがマントの中から、ゆっくりと顔を出した。
「お姉ちゃま!」
声が、遠く聞こえた。左腕は、おかしな角度で胴の前に垂れたまま、動かなかった。骨が、完全に折れている。
魔力の残量は、ゼロだった。指先の感覚が、もう戻ってこない。
血の味が、口の中いっぱいだった。私の視界がゆっくり傾き、天井が横に流れた。
――終わった。
意識が、白い焔の余韻ごと、深い場所に落ちていった。
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