第48話 「退かぬ」
シャルロットは、壁を殴りたかった。客間の入口に立ったまま、体が前に出ない。
肩の傷が引きつるたびに視界が白く潰れて、膝が折れかける。
「情けない」
爪が掌に食い込んで、痛みだけが今の自分を繋ぎ止めていた。廊下の奥で、重い蓋が開く音がした。
リーラとカイルの足音が階段を降りていく。
遠くなって、地面の下に吸い込まれて、消えた。
廊下が、静かになった。リーラの父君が、長椅子に横たえられている。
リーラの母君が傷口を押さえて、薬棚から何かを出そうとしている。赤い血が白い大理石を伝って、客間の敷居まで来ていた。
「――っ」
立っているのがやっとだった。ベッドに戻ろうとした。
階下から、足音が聞こえた。一人ではなかった。
三つ。重い。
革靴と、金属の擦れる音。階段を上がってくる。
――使用人棟の方角から。
玄関を経由していない。家の動線を、知っている足取りだった。
迷いがない。リーラの自室の方角に、真っ直ぐ向かっている。
シャルロットは、剣の柄を握り直した。
――主目標はノエルだけじゃない。
リーラ自身も、結社の狙いか。
それから、もう一つ気付いた。使用人の中に、内通者がいる。
ヴィクター侯爵は動けない。母君は夫の傷口を押さえている。
リーラ達はもういない。
本隊の三人が、リーラの部屋に辿り着く前に。その先の、寝込んでいる私の客間と、動けない父母のもとに辿り着く前に、止めなければならない。
残っているのは、私だけだった。
――立て。
歯を食いしばった。
さっきまで「体が前に出ない」と言っていた膝が、爪の食い込みの痛みを足元まで降ろして、ようやく床を踏みしめた。
「こんな所で、寝てる場合じゃないわよ」
声に出した。誰に言ったわけでもない。
自分自身に。
壁伝いに客間のベッドサイドへ戻った。立て掛けてあった布袋に手を伸ばす。中の双剣の柄に指が触れた。
肩の包帯が引きつった。
「いったぁ、でも、私、回復は早いの」
二本の剣を握った。軽い。
細い。自分の手に馴染む長さ。
ラヴェルンの風魔法が、柄を通じて掌に流れ込んでくるのを感じた。マルタが部屋に駆け込んできた。
「シャルロット様、お休みください!」
「マルタ、逃げて。あなたを守る余裕は今ないの」
階段を三人の足音が上がってくる。
二階の廊下に出た。壁に手をつきながら。
肩から血が滲み始めている。包帯の下で、傷が開きかけていた。
階段の踊り場で、三人と目が合った。黒い外套。
短剣。結社の紋章が胸に縫い取られている。
「我が名と血に賭けて――ここは、退かぬ」
「シャルロット・ド・ラヴェルン。ラヴェルン侯爵家の長女よ」
「通りたくば、越えていきなさい! 死んでも通さないけどね!」
口の端が、不敵に歪んだ。
先頭の男が、ふん、と鼻で笑った。
「貴族様だぁ? ぼろぼろじゃねえか。そこをどけぇっ」
短剣を振り上げて突進してきた。
双剣を交差させた。短剣の刃を挟み込んで弾く。
同時に右の剣を返す。触媒に風の魔力を流した。
透明な刃が伸びて、一人目の首筋を裂いた。
血が壁に飛び散る前に体が崩れた。二人目が左から回り込んできた。
肩が引きつった。視界が一瞬白くなった。右手の剣は、まだ一人目を切った姿勢のまま戻りきっていない。
「包帯。新調しなきゃ」
減らず口を叩きながら、剣を引かなかった。引けば防ぎ切れない。代わりに、左腕を上げた。
二人目の短剣が、左の二の腕に深く食い込んだ。骨に触れる感触まで、はっきり伝わってきた。
血が、噴いた。動脈が裂けたような噴き方だった。左手の指先から肘まで、一瞬で真っ赤になった。床に赤い水溜まりが広がっていく音まで聞こえた。
視界の左半分が白く飛ぶ。それでも、シャルロットは笑った。
刃を腕に咥え込んだまま、右手の剣を返した。光属性の魔力を、剣身に流し込む。ラヴェルン家の双剣術の真骨頂、風刃と光壁の同時制御。
光の刃が伸びて、二人目の胸を貫通した。背中から切先が抜けて、後方の壁に突き刺さる。男の体が、剣と壁の間で串刺しになったまま、ずるりと崩れ落ちた。
左腕を見下ろした。噴き出す血を、右手で押さえる。
――せっかく治してもらったのに、またケガが増えた。
三人目が、シャルロットの動きの隙を突いた。右の剣で受けた。
力負けした。包帯が左肩で完全に裂けて、傷口から鮮血が広がった。
左腕からも、まだ血が噴き続けている。床の血溜まりに、もう一筋、新しい赤が加わった。
白い生地が、赤く染まっていく。
「ぅっ」
膝が揺れた。三人目が押してくる。
刃と刃が鍔迫り合って、シャルロットの体が後ろに傾いた。
女の腕では、押し切れる相手じゃなかった。短剣の切先が、ぐ、と滑った。
シャルロットの脇腹を、横一文字に掠めた。布地が裂けて、新しい血が湧いた。
「くそっ―――」
声が、出なかった。それでも、足の指で床を掴んだ。
――あと一度。
一度だけ。
踊り場の手すりに、背中を預けた。あえて。
崩れるように。体重を全部手すりに逃した瞬間、押していた三人目の体重が、前にのめった。
その一瞬。右の剣を下から差し込んだ。
残っていた風魔力を、全部、剣身に乗せる。風刃が、男の顎の下を裂いた。
血が、シャルロットの顔に降ってきた。熱かった。
三人目の体が、勢いを殺せずに手すりを越えた。階段の下へ転がり落ちていく音がして、途中で柱に当たり、止まった。
三人とも、倒した。
「ラヴェルンの娘は、退かぬ」
呟いた。誰にでもなく、自分に。
「令嬢は普通、こんなことしないけど」
口は笑っていた。
体は、もう動かなかった。膝が折れ、手すりにもたれたまま、ずるずると床に座り込んだ。
脇腹と肩と左腕から出血がひどい。双剣が指から滑り落ちて、大理石の上に金属音を立てた。
マルタが駆け寄ってきた。
「シャルロット様」
「あら、私、回復は早いって自分で言ったばかりなのに、嘘ついちゃったわ」
笑いながら、目を閉じた。
母エレインの声が、遠くから聞こえた。震えていた。
「ノエルは、ノエルは、まだ」
「リーラとカイル殿が追っている。信じるしかない」
ヴィクターの低い声。普段の侯爵の声ではなかった。
父親の声だった。それでも、無理に押さえつけたような、平静を装った響きだった。
「あなた、あの子はまだ六歳なのよ―――」
母の声が、最後で崩れた。
ヴィクターは答えなかった。代わりに、長椅子の上から、別の声を絞り出した。
「マルタ、私の薬棚から最高級の止血剤を。シャルロット殿には、借りができた」
マルタが包帯を巻き始めた。温かい手が肩に触れて、布が傷口を押さえる。
涙ぐんでいる気配がした。
――ノエルを、連れて帰って。
シャルロットは、薄れる意識の中で祈った。今朝、薬草の籠を抱えて部屋に駆け込んできた、あの小さなお姫様に。
最後に残った感覚は。拳を握る力だけだった。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語を見届けたいと思ってくださったら、ブックマークと★で、そっと背を押していただけると嬉しいです。毎日更新しています。




