第47話 悲鳴
薬草園の鋳鉄の柵が、鳴った。風ではなかった。柵を掴んで揺らす手があった。一つではない。複数の手が、複数の角度から、同時に。
母の悲鳴が温室の方角から上がった。椅子を蹴って立ち、窓に駆け寄った。
薬草園の奥。温室の硝子壁の向こうで、黒い外套が三つ、四つ、動いている。警備の使用人が一人、膝から崩れた。声を上げる間もなかった。
ノクスが窓枠を蹴って室内に降り、廊下の絨毯に四本足を揃えて駆け出している。着地の音すらなかった。
「ノクス」
「行け。薬草園だ」
それだけだった。黒い尾が階段の角を曲がって消えた。
廊下に出た。走った。二階から一階への階段を三段飛ばしで降りた。革靴が大理石を叩く音が邸内に反響している。
「お姉ちゃま!」
ノエルの声が、薬草園の方角から聞こえた。心臓が握り潰された。
一階に着くと、玄関の方角から別の金属音。剣が鍔迫り合う音。父が、短く鋭い声を上げた。怒声か、呻きか、聞き分けられなかった。
二方向で、同時に襲撃されている。薬草園と、玄関。賊は二手に分かれていた。
薬草園に走った。温室の硝子壁が割れていた。鋳鉄の柵が一箇所、根元からへし折られている。
中に入った。薬草の鉢が三つ割れて土が散乱していた。
母が温室の奥で、腕を伸ばしている。掌に紫色の粉末を握っていた。毒草。トリカブトの乾燥粉だ。
温室の侵入者は五人。うち三人が、母の紫の粉を浴びて膝を折りかけている。顔が白く変色し、呼吸が荒い。残りの二人は、母を回り込んで温室を突破した。
二人の狙いは、ノエルだった。
「お姉ちゃま!」
ノエルが温室の裏口に立っていた。
金色の前髪が乱れて、目を見開いている。
結社員の一人がノエルの腕を掴み、もう一人が反対側の腕を取った。ノエルの小さな体が持ち上がった。
「放して! 放してよ!」
ノエルが叫んだ。足を蹴った。歯を剥いた。六歳の歯が結社員の手の甲に食い込んだ。
「噛みやがった!」
結社の一人がノエルを乱暴に肩に担ぎ上げた。地下井戸の方角へ走り出す。
追いかけて走ったが、足が遅い。ノエルの叫びが遠くなる。
玄関から、父の声が聞こえた。聞こえなくなった。
振り返れないまま、ノエルを追った。地下井戸の蓋が開いている。
ノエルの声が、下から、反響して
「お姉ちゃまっ――」
蓋が閉まる音がした。
走って井戸の前に着き、蓋を開けた。下に梯子がある。ノエルの声が遠くなっていく。
背後で、足音が乱れた。振り返った。
玄関の廊下の奥で、父が膝をついていた。胸に、赤い線が走っている。
白い診察着の上に、赤が広がっていく。大理石の床に赤い点が落ちて、そこから筋になっていた。
玄関の方には、三人目の賊が立っていた。父はすでに何人かを斬り伏せたらしく、足元に二つの影が倒れている。その三人目に胸を斬られた直後だった――その瞬間、ノクスが廊下の天井から降ってきた。
私の唇が、一節、紡いだ。
黒紫の光が三人目の胸を貫いた。一節で済ませるつもりだった。怒りが、二節目を勝手に重ねた。
光が内側で膨らみ、賊の体が爆ぜた。外套も、剣も、血も、全部、一瞬で白い光に呑まれて消えた。
大理石の壁に、人の形をした焦げ跡だけが残った。
ノクスの肩越しに、父と目が合った。
父が顔を上げた。目が合った。
「リーラ。ノエルを追え」
声が、掠れていた。
母が温室の出口から飛び出してきた。
「あなた!」と叫んだ。
父に駆け寄って、膝に手を添えた。薬草の粉で紫色になった指が、父の胸の傷を押さえようとしている。
「リーラ、行きなさい」
母の声が震えていた。でも目はしっかり娘を見据えていた。
「お父様」
「行け。俺はまだ死なん。ノエルを頼む」
父の血が、白い大理石に広がっていく。朝、ノエルが歌いながら通った廊下を、赤い筋が伝っていた。
客間の方角から、シャルロットの声が聞こえた。
「ノエル!」
ベッドから半身を起こしたシャルロットが、壁を手で支えながら客間の入口に立っていた。肩の包帯が引きつって、顔が白い。拳を握っている。握りすぎて震えている。
「私が、何で今動けないのよ、っ」
シャルロットの声が、歯の間から搾り出された。
目の前で全部が起きていた。父の血。ノエルの叫び。シャルロットの拳。母の泣き声。
全部が一度に視界に入って、同時に襲いかかってくる。
心の中で、何かが、外れた。
――もう、知ったことか。
ノクスが廊下から戻ってきた。小さな黒い体が大理石の血の筋を跳び越えて、肩に飛び乗った。
四本足が鎖骨の上を通り、いつもの位置に収まった。鈴が鳴らなかった。
「お前、やる気か」
リーラだけに届く声だった。
「うん」
「やれやれ。いつも通りだ。お前がやった分は、全部俺の手柄にしておく」
「ありがとう」
「礼は餌三倍でいいぞ。行くぞ」
正門が蹴り開けられる音がした。カイルが駆け込んできた。
剣を抜いたまま。鞘から抜いた状態で走ってきたということは、門の外で既に何かを斬っていた。
――約束より、早い。
シャルロットと話す予定は、もっと先のはずだった。
「リーラ」
カイルの両手が、剣の柄から離れた。離れて、私の肩を掴んだ。落ち着かせるように、強く。
体が震えていた。止まらなかった。
ノエルが連れていかれた。妹が。あの子が。
「何があった!」
「ノエルが、連れていかれた!」
声が割れた。カイルの目の色が変わった。
「聞け」
肩を掴む手に力が入った。
「俺が隣にいる。絶対に取り戻す」
目に涙が滲んだ。
「はい」
カイルの手が肩から離れた。剣の柄に戻った。構え直す。
王宮剣術の本来の構えだった。今までギルドで見せていた動きとは違う。
カイルの剣が鳴った。金属の低い震えが廊下に残った。
地下井戸の蓋に手をかけた。梯子が下に続いている。
ノエルの声は、もう聞こえなかった。
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