第46話 「世界一の完璧な令嬢」
シャルロットは一人になっていた。
リーラが客間を出ていく扉の音。マルタが茶器を下げる気配。
ノエルが廊下の遠くで虫の数え歌を歌う声。
それらがゆっくり遠ざかって、療養室に音がなくなった。
ベッドの背もたれに、ふっと体を預けた。天井の白漆喰を見上げた。胸の傷が、ずきりと痛んだ。
「はぁ」
口から、自分でも意外なほど深いため息が漏れた。
――カイルが来るまでに、整理しておかなきゃ。
午後、カイルが合流する約束だった。三人で、結社のこと、ヴィオラのこと、これからのことを話す。それまでに、泣いた顔を元に戻さないと。
侯爵令嬢のシャルロットでも、お転婆のシャルロットでも、剣士のシャルロットでもない、ただの女のシャルロットが、その瞬間だけ、現れた。
療養室の鏡に、シャルロットが映っていた。包帯の巻かれた肩。乱れた髪。額に汗が滲んでいる。それでも、鏡の中のシャルロットは、綺麗だった。
シャルロット本人だけが、知っていた。鏡の中の女と、自分が、繋がっていない。
「世界一の完璧な令嬢」
夜会では誰もが彼女を見ていた。全部、仮面だった。
本当の私は、走るのが好きで、剣を振りたがって、笑う時にぐしゃぐしゃに顔が崩れる、ただの女だ。
その女を、誰の前でも出せなかった。
―――目を閉じると、記憶が浮かんだ。
王城の薔薇園。十一歳の秋。
カイルが「お前と俺、いつか結婚するらしいぞ」と冷めた声で言った。
少しも嬉しそうじゃなかった。
「知ってるわよ、そんなこと」
その夜、ベッドで枕に顔を埋めて、足をばたばたさせた。
「いつか結婚するらしいぞ、じゃないでしょ」と何度も呟いた。
声が裏返るくらい、顔が熱かった。
記憶が切り替わる。
王城の塔の上。深夜。十三歳の冬。二人で星を見ていた。吐く息が白い。カイルは隣に座って、手すりに両肘をついたまま空を見上げている。
「ねえ、カイル。私、男っぽいでしょう。あなたの隣に並ぶには、もっと可愛くならないといけないと思うの」
カイルがこちらを見た。
「お前は、お前のままでいい」
信じられなかった。自分自身が、その自分を認めていなかったから。
記憶が切り替わった。
神官学校の中庭。十四歳の春。陽光が石畳を白く照らしている。ラウレントに出会った。平民出身の治癒術師。優しい笑い方をする男だった。
シャルロットを「お嬢様」ではなく「シャルロット」と呼んだ。
呼び方が軽くて、距離が近くて、でも馴れ馴れしくはなかった。
ラウレントは、シャルロットが剣を振っているところを見て、笑って言った。
「シャルロットさん、剣を振っている時の方が、可愛いね」
息が止まった。カイルにも同じことを言われた。でも信じられなかった。言葉だけだと思った。この人は、言葉じゃなく、見て、笑っている。
記憶が、また巡る。
王城の中庭。十四歳の夏。蝉の声。カイルに告げた。
「カイル。婚約、破棄してちょうだい。好きな人ができたの」
カイルの動きが止まった。一秒、二秒。そして笑みを浮かべた。
「そうか。お前が選んだなら、いいさ」
笑顔だった。
でも、シャルロットは見た。カイルの目が、一瞬だけ、確かに揺れたのを。すぐに笑顔に戻した。その一瞬を、見逃さなかった。
心の中に、罪悪感と、安堵と、名前のつかない何かが混ざった。
「カイル、ごめん」
思わず言ってしまった。
カイルのプライドを傷つけたかもしれない。カイルは背を向けたまま、片手を上げた。振り返らなかった。
それから、四年が過ぎた。
ラウレントとは、十八歳の春に別れた。家柄の差で、両家の許可が下りなかった。別れて二年後、神官として疫病の村に行ったラウレントは、戻らなかった。公式記録は、病死。遺体は、いまだに見ていない。
シャルロットの戻れる場所は、もう、どこにもない。
療養室のベッドの上で、シャルロットが目を開けた。天井の白漆喰が、ぼんやりと滲んでいた。
それなのに、昨夜、気を失った私を助けたカイルの隣には、もう一人、少女がいた。
銀髪・紫の瞳・侯爵家の娘・リーラ・ヴェイン。
カイルが「協力者だ」と言った。
でも、カイルがリーラを見る目は、協力者を見る目ではなかった。
胸の中に、何かが、ちくりと刺さった。
「いい子じゃない」
口に出した。小さく笑った。
嫉妬だった。自分で手放した男のはずなのに、別の女が隣にいると胸が痛い。理屈に合わないことくらい、分かっている。
これは、私の問題。
リーラには、関係ない。二十二歳のシャルロット・ド・ラヴェルンは、二度、選んだ。一度目は、カイルじゃなくラウレントを。二度目は、ラウレントを失った後、もう誰の隣にも立たないことを。
選び損ねたんじゃない。選んだ。
ラウレントは死んだけど、ラウレントを愛した日々は、シャルロットの中で生きている。カイルとの過去は、苦い記憶じゃない。あれはあれで、輝いていた。
リーラは、そのままだった。飾らず、無理せず、カイルの隣にいた。
なぜ私はああなれなかったのだろう。あの子みたいに、素のままで隣に立てなかったのだろう。
でも、無理して変わっていたら、それで幸せだったのかは、誰にも分からない。
ノエルの歌声が、廊下の遠くから、また聞こえてきた。今度は虫の数え歌の六番。やはり自作の歌詞で。
もう一度、天井を見上げた。
「もう、いいわ」
口に出した。誰もいない部屋に向かって。
「私は、誰の妻にもならない。誰の婚約者にもならない」
笑った。今までよりずっと不敵な、自分の声だった。
「カイルも断った。恋人は死んだ。兄上の妃の座も蹴った。全部手放してきたわね、私」
声に出して、自分自身を笑った。
「でも、シャルロット・ド・ラヴェルンは、行き遅れにも、家の重荷にもならないの」
天井の白漆喰に向かって、続けた。
「王家の妃の座? 退屈。誰かの可愛い妻? 器が小さい。私が、本当に欲しかったものは、もっと、別のところにある!」
ベッドの上で、不敵に笑った。気持ちが、燃え上がった。肩の傷さえ、闘志の燃料に変わった。
首元のロケットに指を触れた。形見のロケットの中で、ラウレントの小さな絵姿が眠っている。蓋を開けずに、指の腹で表面を一度だけ撫でた。
「陛下を取り戻す。ヴァーン兄上も。結社は、私が潰す」
長く息を吐いた。
「結社を潰して、ルグランドを立て直す。この国を、私の手で」
天井に向かって、笑った。自分でも驚くくらい、本気の声だった。
「カイルがリーラの隣にいるなら、それでいい。私は、二人の隣じゃない。二人の前を歩いて、敵を薙ぎ払う!」
そして、心の中だけで、最後の宣言を響かせた。
剣を振りたい時に振る。走りたい時に走る。男っぽいと言われたら、笑って認める。本当の自分のままで、もっと、でかい所に行く。
「そう、決めた」
声に出して言った。
「さあ、シャルロット・ド・ラヴェルン、行くわよ!」
自分自身に、号令をかけた。
勢いよく上半身を起こそうとした。
「いったぁ」
肩の包帯が、思いっきり、引きつった。ベッドの上で、固まった。不敵な顔のまま、唇の端が震えて、目尻に涙がにじんだ。
「まだ、傷、塞がってないんだった」
しょんぼりと、呟いた。
さっきまでの王国を立て直すと誓った女が、たった三秒で、傷ひとつで、しょんぼりした少女に戻った。
肩を押さえて、ベッドの端に手をついて、ゆっくり体を戻す。クッションに体重を預けて、天井を見上げた。
「シャルロット様、ご無理はなさらないでくださいませ」
扉の外から、マルタの声がした。新しい茶のポットを持って、入ってくる。落ち着いた知的な目で、私の様子を、見ていた。
「お一人で、立派な決意をなさいましたね」
「マルタ、聞いてたの?」
「ほんの一部だけ」
マルタが新しい茶を注いだ。湯気がふわりと立つ。シャルロットがカップを受け取った。両手で包む。
手のひらが、ほんのり温かくなる。一口飲んだ。カモミールの香りが鼻を抜けた。リーラの母が調合したものだと、さっき聞いた。
「マルタ。あの子、リーラはどんな子?」
マルタが少し考えてから答えた。
「あのお嬢様は、笑う時も、どこか遠くを見ていらっしゃいます。十八歳の普通の娘の笑い方ではございません。それと、先のことを考えていない時の方が、少ないかと」
「ふうん」
「シャルロット様とは、違う種類の強さでございます」
「私の方が、面白い種類でしょ?」
「左様でございますね」
マルタの口元に、控えめな笑みが浮かんだ。シャルロットも笑った。侍女と肩の力を抜いて並んで笑うのは、社交界では絶対にやらないことだった。でもこの部屋なら、許される気がした。
「リーラを可愛がるわよ。私、妹が欲しかったの」
マルタが優しく微笑んだ。
「お嬢様も、お喜びになるでしょう」
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