第45話 「一人で抱えるには、重すぎたの」
シャルロットは窓の外を見ていた。
「陛下が変わり始めたのは三年以上前」
朝日が薬草園の緑を照らしている。鋳鉄の柵の影が地面に細い線を引いている。
「最初に違和感を覚えたのは王妃様だった」
声の調子が変わった。
社交の場で鍛えられた声ではなく、もっと深い場所から出てくる声。
「寝室を別にしてくださいって、泣いて願い出た夜から、決定的だったの」
私の指が、膝の上で小さく動いた。
「王妃様が泣いて」
「ええ。あの方は、普段は絶対に泣かない人よ。カイルの母君でしょう。あの家の女は、泣かないの。泣いたのは、あの夜が初めてだった」
シャルロットが茶のカップに手を伸ばした。飲まなかった。
カップの縁に指を添えて、そのまま戻した。
「ヴァーン兄上は一年前。それまでは優しい人だった。カイルとも仲が良かった」
「一年」
「ヴァーン兄上が変わってから、今度は私とヴァーン兄上の婚約が、強引に進められた」
「ヴァーン兄上と」
「カイルとの婚約は、とうに破棄されていたの。それを、結社に乗っ取られた後の王家が、今度は兄上の妃にと、勝手に決めた」
シャルロットの口元が歪んだ。怒りではなかった。
もっと冷たいものだった。
「私はそれを拒んで、ヴィルヌアに逃げてきた」
「近衛兵を、十騎」
シャルロットの指がカップの縁を、もう一度なぞった。
「途中まで撒けなかった。最後の三騎を、馬車を捨てて路地で振り切った。肩の傷は、その時のもの」
「近衛兵だけが、真実を知っている。事情を聞かされているのは、王家直属のあの十騎だけ。他の兵も、貴族も、民も――表向きは何も起きていないことになっている」
「だから、王城は普段通りに動いているように見えるのね」
「ええ。腐っているのは、芯だけ。外からは、まだ綺麗に見える」
胸の奥に、小さな棘が刺さった。婚約。
カイルと、この人が。終わった話だと分かっている。
それなのに、胸の底が冷たくなるのを止められなかった。客間の空気が重くなった。
窓の外、遠くからノエルの歌声が聞こえている。虫の数え歌の五番。
自分で歌詞を作って、途中で音程を間違えて、笑って最初からやり直している。シャルロットの声がさらに低くなった。
「呪いよ。心を奪うの。身体はそのまま。顔も声も変わらない。でも目を見れば分かる。もう、あの人じゃないって」
私は黙って聞いていた。
「目の奥が空洞になって、声色だけが残る。触ると、皮膚の感触が違う。冷たい」
シャルロットの右手が、左の手首を握った。自分の体温を確かめるように。
「陛下の手を握った時に、分かったの。冷たかった。あの方の手は、いつも温かかったのに」
「シャルロットさん」
「平気。泣くのは昨夜で終わりにしたから」
笑ったが、目は笑っていなかった。
「もう一つ。私が王宮で気になってた神官がいるの」
「神官」
「ええ。ヴィオラって名前」
「ヴィオラ」
シャルロットがカップを置いて、指先で台を一度叩いた。
「結社の動きの中で、何度か見かけたの。本当に結社の手先なのか、それとも別の何かか、私には判別がつかない。でも、握手した時、皮膚が冷たかった。あれは普通じゃないわ」
「どんな方ですか」
「深紅の髪。神聖教皇国アルシェロンの神官の出で、襟元に古い神官紋の金糸を縫い込んでる。六芒星を二重円で囲む意匠」
名前と容姿の組み合わせが、頭の中で引っかかった。
――あの幽霊か。
街道でトールが「女幽霊」と呼んでいた、深紅の髪の神官。
森の縁から距離を置いて消えた、あの女。
「街道で、一度だけ見ました。私、冒険者もしていて。その仲間が幽霊って呼んでいた人です。距離を置かれたまま消えて、名前までは」
シャルロットの目が細くなった。
「同一人物とは限らないわ。でも、アルシェロンの神官で深紅の髪は、向こうでも珍しいの。一致するなら、たぶんあの女よ」
シャルロットが茶のカップを持ち上げて、一口飲んで、台に戻した。
「以前、私が王都の郊外で見かけた時は、何かを確かめるように、遠くから私たちを見ていたの」
「敵か、別の何かか、まだ私にも分からない」
シャルロットがまっすぐこちらを見た。
「ヴィオラ・カーレン。名前だけ、覚えておいて」
「ヴィオラ・カーレン」
名前を繰り返した。
頭の中に刻んだ。深紅の髪、アルシェロンの六芒星紋、冷たい皮膚。
街道で距離を置いたまま消えた女。
「リーラ」
シャルロットの声が少し柔らかくなった。
「ありがとう。聞いてくれて」
「いいえ」
「一人で抱えるには、重すぎたの」
笑った。今度は、ほんの少しだけ、目も笑っていた。
客間の窓から、薬草園の緑が見えた。父の声が廊下の奥でまだ聞こえている。
母が温室の裏口を開けた音がした。
――これは、私が知ってはいけない深さの情報だ。
父王の侵食。王妃の涙。
ヴァーン兄上の変貌。婚約の強制。
結社の手口。ヴィオラ・カーレン。
カイルが三年間、一人で抱えていたものの重さが、少しだけ分かった気がした。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語を見届けたいと思ってくださったら、ブックマークと★で、そっと背を押していただけると嬉しいです。毎日更新しています。




