第44話 「あなたみたいな人、好きよ」
父の診療室から、薬草を煎じる音が聞こえていた。銅の鍋が揺れるたびに蓋が小さく持ち上がって、その合間に父の低い声が患者に何かを説明している。
昨夜、血まみれの女が門の前で倒れていたことが嘘のような、穏やかな朝だった。ノクスが窓枠の上で日向ぼっこをしていた。
黒い毛並みに朝日が落ちて、尾の先だけが左右にゆっくり揺れている。金色の目は閉じている。
眠っているのか、聞いているのか、判別できない。
「ノクス」
尾が止まった。目は閉じたまま。
「シャルロットさんの様子、見てくる」
「好きにしろ」
肯定の口癖だった。
客間は二階の西棟、私の部屋とは廊下を挟んで反対側にある。歩き出した時、薬草園の方からノエルの歌声が聞こえた。
虫の数え歌の二番を、自分の好きなところで音を上げたり下げたりしている。即興の癖は直らない。
客間の扉の前で、マルタとすれ違った。朝食のトレイを両手で持っている。
蜂蜜の壺と薄切りパンの皿が半分ほど減っていた。途中で休まれたらしい。
「お加減は」
マルタが足を止めた。
落ち着いた知的な目が、一瞬だけ柔らかくなった。
「半分召し上がりました。お声をお掛けくださいませ」
頷いて、扉を開けた。
シャルロットがベッドの上で上半身を起こしていた。背中にクッションを二つ重ねて、壁に寄りかかっている。
白金のサイドポニーが肩にかかって、朝日に透けている。包帯がまだ左肩に巻かれていた。
昨夜、父が消毒して巻き直したものだ。ガーゼの端が鎖骨の手前で折り返されている。
ベッドサイドの壁に、細い剣が二本、布袋に包まれて立て掛けてあった。ラヴェルン家の双剣。風と光の魔法を流す触媒だと、昨夜カイルが教えてくれた。
シャルロットが寝込む時も枕元から離さない、習慣らしい。
顔色は、昨夜よりだいぶ戻っていた。
青い目が、入ってきた私をまっすぐ見た。
ベッドサイドの台に、カモミール茶が置かれていた。マルタが起き抜けの一杯を淹れてくれたらしい。
湯気がまだ立っている。
「あら、リーラ嬢。来てくれたのね」
声が大きかった。廊下の端まで届きそうな張りがある。
侯爵令嬢の品はあるが、それを上回る勢いが先に来る。
「お加減はいかがですか」
「明日には立てるわ。私、回復は早いの」
笑った。
よく通る笑い声だった。口を開けて、遠慮なく。
直後に肩が引きつった。
「いったぁ」
包帯の下の傷が引っ張られたらしい。顔が一瞬ひしゃげて、眉間に深い皺が寄った。
さっきまでの堂々とした声が嘘のように、小さく息を吐いて、額に汗を浮かべた。
「無理しないでください」
「無理じゃないわ。笑ったら痛かっただけ」
右手で肩を押さえて、ふうっと息を吐く。
それでもベッドの上で背筋を伸ばし直す。こちらを見上げる目に、弱さはなかった。
シャルロットが私を上から下まで見た。何かを確かめるように、髪から指先まで視線を通された。
「昨夜血まみれで転がり込んだ女に、朝一番でお茶? 怖くないの?」
「怪我をしている方に、敵も味方もありません。それに、カイルの幼馴染だって聞きました」
シャルロットが少し目を開いた。
「ラヴェルン侯爵家のシャルロット様。夜会でご挨拶したことがあります」
「覚えていてくれたの」
「はい。とてもお綺麗な方でしたので」
シャルロットが、ふっと笑った。からりとした笑顔だった。
「リーラ嬢。リーラ、って呼んでいい?」
「え、はい」
「恩義もあるけど、それだけじゃないの。あなたが好きよ」
「なんで。会ったばかりなのに」
声が、少し揺れた。
好きと言われたことが、ほとんどなかった。前世でも、たった一人だけだった。
シャルロットが声を上げて笑った。肩の傷が痛んだのか、途中で顔をしかめたけれど、笑うのをやめなかった。
「あなた、本当に分からないのね。だから愛おしいのよ」
笑い終えて、目を拭った。涙が出るほど笑ったらしい。
「リーラ。あなたは私の命の恩人よ」
「そんな」
「黙って聞いて。私はラヴェルン家の人間よ。借りは返す。一生かけてでも」
真っ直ぐな目だった。
笑った直後なのに、声に芯が通っていた。
「あなたのことは、私が守る。これは恩返しじゃなくて、私がそうしたいの」
「そこまでのことは、していません。医師見習いとして当然のことをしただけです」
「そういうところ」
シャルロットが私の手を取った。怪我人の手とは思えないくらい、しっかりした握り方だった。
「あなた、自分が何をしたか本当に分かってないのね。損得なしで、見ず知らずの女を助けて、それを当然だって言う。私の周りに、そんな人はいなかった」
目が潤んでいた。
笑っているのに、泣きそうだった。
「リーラ。あなたみたいな人、好きよ」
胸の奥が詰まった。五千年の前世で、こんな風に真正面から好きだと言われたことがなかった。
距離の詰め方が速すぎて、息が追いつかない。返す言葉を探しているうちに、シャルロットはもう茶のカップに手を伸ばしていた。
一口飲んで、目を閉じた。
「このカモミール、いいわね。お母様の調合?」
「はい。母は薬草が専門で」
「道理で」
カップを台に戻して、窓の外を見た。薬草園の緑が朝日に光っている。
鋳鉄の柵の向こうで、ノエルの歌声がまだ続いていた。虫の数え歌が三番に入っている。
しばらく経って、歌声がふっと止まった。代わりに、廊下を駆ける小さな足音が聞こえてきた。
階段を上がってくる音、絨毯の上で速度が落ちる音、扉の前で止まる音。
「シャルロット様、おはようございますの!」
扉が開いた。ノエルが両手に小さな籠を抱えて入ってきた。
摘んだばかりのカモミールの白い花が、つぼみごと束になっている。六歳の腕には少し大きい籠で、入ってきた足元に、小さな白い花弁が一つ二つこぼれ落ちていた。
「ノエル、それは」
「お母様がね、薬草園のね、シャルロット様にあげる、って!」
シャルロットが目を細めて笑った。
「あら、ノエル、私の小さなお姫様」
ノエルの目が輝いた。
籠をベッドサイドの台に置いて、花を一輪、指で摘んで、シャルロットのカップの脇にそっと添えて、ノエルがシャルロットの隣にちょこんと座った。
ベッドの縁に腰を下ろして、足がぶらぶら宙に浮いている。ノエルの視線が、シャルロットの胸元に止まった。
銀のロケットが、ベッドの上で光っている。小さな楕円形の、古い銀細工。
鎖が細くて、寝ている間も首から外さなかったらしい。
「これ、なあに?」
ノエルが指を伸ばした。ロケットの表面に触れかけて、止まった。
シャルロットの手が先にロケットを包んでいた。一瞬だけ、シャルロットの声が下がった。
「お守りよ。大事な人からもらったの」
声色が変わった。
笑っていた口元がそのままの形を保っているのに、目の奥だけが別の場所を見ていた。ほんの一瞬。まばたき一つぶんの時間で、戻った。
ノエルは気づいていないようだった。
「素敵!」
無邪気な声が客間に響いた。シャルロットが笑い声を回復させた。
さっきと同じ張りのある声で。
「ノエル、あんた将来絶対モテるわよ」
「モテるってなあに?」
「いい子ねえ。知らない方がいいわ」
ノエルの頭を右手で撫でた。金色の前髪がシャルロットの指の間をすり抜けていく。
ノエルが気持ちよさそうに目を細めた。私はベッドの脇に立ったまま、シャルロットの手を見ていた。
ロケットを握りしめた左手の拳。指の節が白く浮いていた。
――大事な人。
ノエルが歌いながら廊下に去った。虫の数え歌の四番を、自分で歌詞を作りながら。
「ノクス様、お茶飲むー?」の声が遠ざかって、客間に二人だけが残った。
シャルロットの目つきが変わった。
社交の笑顔ではなかった。
侯爵令嬢の品もお転婆の勢いも引っ込んだ。
「リーラ、昨夜は門の前で気を失う前に、必要なことだけしか伝えられなかった。今、もう少し話していい?」
「もちろん」
ベッドの脇の椅子に座った。シャルロットがクッションを少し直して、こちらに向き直った。
包帯の下の肩を庇いながら。客間の扉は閉じていた。
廊下の向こうで父の声がまだ聞こえる。患者に薬草の煎じ方を説明している。
母は温室にいるはずだ。ノエルの歌声はもう聞こえない。
シャルロットが低い声で語り始めた。
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