第43話 「人を好きになるのは、自由だ。怖いのも、自由だ」
自室の窓を開けた。月が西に傾いている。薬草園の向こうで、街灯が一つ揺れていた。虫が光の周りを回っている。
ノクスが窓枠に登った。黒い毛並みが月明かりに青く光った。
「敵は、予想より大きい」
ノクスが、月の方を向いたまま、低く言った。
「あの赤い瞳の女、結社の諜報員を屋根の上から始末した動きは、素人じゃない。古代知識の使い手だ。あれが結社側じゃないとすれば。別の何かが、結社を裏で潰しに動いている」
「別の何か」
「別の使徒か、その眷属か、あるいは、もっと別の勢力か。今のところ、見当はつかん」
ノクスが前足をシーツの上に置いた。爪は出していなかった。
「お前、カイルとシャルロットを見て、ちょっと揺らいだな」
「うん」
隠す気はなかった。ノクスの前で嘘をつくのは、十年で諦めた。
ノクスが、しばらく黙っていた。尾の先だけが、一度揺れた。
「何度でも言う。お前が忘れるからな」
「人を好きになるのは、自由だ。怖いのも、自由だ」
目を閉じた。返す言葉がなかった。
好きだと認めるのが怖いのではない。好きだと認めた後に、失うのが怖い。
前世で学んだことの中で、一番役に立たない教訓だった。
月明かりが窓から差し込んでいた。部屋の中に白い光が長方形を作って、ノクスの毛並みの上を流れていた。
遠く、ヴィルヌア中層のどこかで、ドルクの鎚が鉄を打っている。
聞こえはしない。
それでも、聞こえる気がした。
ドルクが片腕で家業をもう少しだけ支える、その音だった。末妹の靴のつま先がぱっくり開いている。あの靴で、明日も歩く。
もう前世のように、他人事として考えるのは、やめたかった。
枕元のノクスの温もりを感じながら、私はゆっくり目を閉じた。
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