第42話 シャルロット
ヴェイン侯爵家の正門が、坂の上に見えた。見覚えのある鋳鉄の柵。蛇杖紋。
もうすぐ家に着く。
そう思った瞬間、足が止まった。鋳鉄の柵の前に、少女が崩れ落ちていた。
白いドレスの裾が赤く染まっている。金色の髪が地面に広がって、柵の鉄格子に引っかかっていた。
顔色――蝋のような白。失血が深い。唇が青い。
左肩から脇腹にかけて、ドレスの繊維が斜めに裂けていた。深い裂傷が、肩口から下に伸びて、筋繊維まで届いている。
傷口の縁が乾きかけ、途中で凝固したのが布の重なりから分かった。最初の出血から、もう数時間。
右の太腿にも浅い傷が二本。短剣の柄を握り直した時の擦れの位置。複数人と剣を交えた跡だった。
――肩の傷は深い。あと、服の下の傷や骨折を確かめないと、致命傷がないか。
「カイル」
カイルの足が止まった。
「シャロ!」
カイルが駆け寄り、膝をついて少女の肩を支えた。
声が変わっていた。
冒険者の声ではない、知り合いの名前を呼ぶ声だった。
シャロと呼ばれた少女の唇が白かった。それでも目だけが開いていて、カイルの顔を捉えていた。
「カイル、王城が」
咳き込んだ。血が唇の端に滲んだ。
カイルの手が少女の背を支えて、もう片方の手がマントの端で血を拭った。
「喋るな。先に手当てを」
「聞いて、カイル」
少女の声に力が戻った。一瞬だけ。言うべきことを言い切るためだけの力だった。
「陛下が完全におかしい。兄上も。私は逃げてきた」
言い終えた瞬間、力が抜けた。肩がカイルの腕の中に崩れ落ちた。
「お父様の診療所へ運びましょう。中へ」
声を出した。迷いはなかった。医者の家系として、目の前で倒れている人間を拒む選択肢はない。
カイルが少女を抱き上げた。腕の中の体が、子供のように軽そうに見えた。金色の髪が揺れて、月明かりを受けて淡く光った。
ヴェイン家の門をくぐった。
父ヴィクターが応急処置にあたる。裂傷が三箇所。出血量は多いが、臓器には届いていなかった。
薬草の匂いが客間に満ちていく中で、少女の呼吸が安定していくのを見届けた。
父が立ち上がった。手を布で拭きながら、短く言った。
「命に別状はない。二、三日で歩ける。だが肩の傷は深い。完治まで二、三週間はかかる」
「ありがとうございます、お父様」
父が頷いた。
それ以上は聞かなかった。
客間を出ていく背中が、いつもより少しだけ重かった。
少女がベッドの上から、私を見た。
包帯が肩から腕にかけて巻かれていた。血の気を失った顔。それでも目だけが鋭く動いて、私の顔、私の髪、私の紫の瞳を順番に見ていった。
「あなたがリーラさんね。お話は、伺っています」
「はい」
誰から伺ったのか。カイルから。どんな話を。
考えても仕方がなかった。
少女の視線が、私からカイルへ移った。カイルを見る目だけが、柔らかかった。
瞼が半分落ちていて、疲弊の奥に、安堵のような色が見えた。
「カイル、無事で何より」
「お前こそ、よく辿り着いた」
カイルの声が低かった。それからカイルが私の方を、半分振り返った。
「リーラ。シャロ──」
言いかけて、カイルが言い直した。
「シャルロットは、王城で俺と一緒に育った。幼馴染だ」
――シャルロット。
そういえば、夜会で一度だけお見かけしたことがある。ラヴェルン家のご令嬢。完璧な所作、完璧な笑顔、完璧な挨拶。噂どおりの人だった。
あの方が、カイルの幼馴染。
短い紹介だった。
それだけ言って、カイルはまたシャルロットの方に向き直った。
シャルロットが私に視線を戻した。
目つきが変わった。警戒ではない。
もっと静かなもの。値踏みするような目だった。
カイルにとって何なのか、と問いかけているように見えた。
「ご迷惑を、おかけします」
「いいえ。今はお休みください」
カイルが私の方を向いた。
「リーラ、シャルロットをここに、しばらく預かってもらえないか」
「もちろん。お父様もそのおつもりのはずです」
ヴィクターが廊下の向こうから声をかけた。
「客人を一人匿うくらい問題ない」
父らしかった。
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