第41話 鍛冶屋ドルクの手帳
リーラは、二人の少し先を、黙って歩いていた。
帰り道で、トールが盾を裏返して見せた。
鉄板の中央が、拳ひとつ分ほど内側に湾曲していた。谷で岩壁に打ち込んだ時の歪みだった。
「父さんに直してもらわないと」
一行は中層のドルク鍛冶屋へ立ち寄ることにした。
店構えが古かった。看板の文字がかすれて半分読めない。店先に並んでいる剣の数が少ない。柄に布を巻いた安い短剣と、鉈が三本。
客の気配がなかった。
四人で中に入った。カイルは入口の近くで腕を組み、店の作りを目で確かめている。鎚が鉄を打つ音が、奥から響いていた。
鍛冶台の前に男が立っていた。人間にしては低く、ドワーフにしては背が高い。ハーフドワーフの体躯に革のエプロンが煤まみれで張りついている。
口の端にパイプを咥えて、鎚を振っていた。雁首には火が点いていない。吸い口だけが、長年の歯型で艶を帯びていた。
左袖が空っぽだった。肩から先が、ない。
鎚を振る間隔が不規則だった。片腕では鉄を回せない。
打つ。止まる。鉄を鉗子で掴み直す。また打つ。
鍛冶台の横にトールの盾が立てかけてあって、いつもはトールが鉄を押さえている。
今日はトールがいないから、鉗子で挟んで一人で打っていた。
ドルクが振り向いた。額に深い皺。
目が、飄々としていた。
笑っていた。
「お、トール、生きて帰ったか」
声が軽い。
「ん? お前、両手に華かよ」
視線がミナに留まった。トールとミナを一瞥して。
「お、ミナじゃねえか。久しぶりだな」
ミナが軽く会釈した。
「ども、ドルクおじさん」
「お前、今日は修道院の使いじゃなく、うちのトールと一緒に来たのか」
「仕事の流れで。ついでよ、ついで」
「ほう、ついでねぇ」
ドルクの口元が笑った。パイプの先端が揺れた。
「お前、もうあれか、うちの息子とは済ませたのか?」
ミナの顔が、一瞬で沸騰した。首筋から耳まで一息で赤くなった。
「はっ!?」
「いや、お前、前から店に出入りする時、トールの方ばっか目で追ってたぞ。今日見てたら、距離感が、もう、そういう仲の女のそれだ」
「ち、違っ、あ、あれは事故、事故っ!」
「お、事故ね。はいはい」
ドルクがパイプの吸い口を噛んで、笑った。
トールが横から首を傾げた。
「父さん、何の話っすか」
ドルクがトールを見た。
「お前がミナを、もう抱いたのかって聞いてんだ」
「あ、抱いたっす。さっき谷で浮いたから」
真顔の即答だった。
ドルクの口からパイプが落ちかけた。笑いが弾けた。
「がはははは!」
「そういうことじゃないでしょぉ、っ」
ミナが涙目で顔を覆ったまま、声だけが漏れていた。
ドルクがしみじみと言った。
「おう、息子よ。お前のそういうとこ、父ちゃんは将来が心配だぞ」
奥から声が飛んできた。
高くて鋭い女の声。
「あんた、ミナちゃんで遊ばないの!」
ドルクの口が閉じた。笑顔のまま、即座に黙った。
トールが私の方を向いた。
「父さん、こっちはパーティのリーラさんっす」
ドルクの口が大きく開いた。パイプが口から落ちて鍛冶台に転がる。目が私の顔から足元まで降りて、もう一度顔に戻り、それからトールを見て、また私を見た。
「おい息子よ。神様ってのは、たまにとんでもねえ仕事するな。どこの嬢ちゃんだ」
スカートの裾を両手で広げて、膝を折った。鍛冶屋の土間でやるものではなかったけれど、いつもお世話になっているトールのお父様だ。きちんと挨拶したかった。
「ヴェイン侯爵家のリーラと申します。息子さんにはいつも助けていただいております」
奥から妻の声がもう一度飛んできた。
「あんた、お客さんをからかうんじゃないよ! ミナちゃん、リーラさん、ごめんなさいねぇ。馬鹿エロおやじで」
ドルクが笑った。
子供たちの声が聞こえてきた。
「父ちゃん、また怒られてるー」
「うるさい、お前らも!」
笑い声が反響した。
小さな鍛冶屋の中に、家族の声が満ちていた。
奥の扉から、子供たちが走ってきた。全員赤茶の髪をしていた。
「妹が三人、弟が二人っす。俺が長男っす」
トールが小声で説明した。
「一番上の妹が十三、一番下の妹が三つっす」
一番小さな子が真っ先にトールの膝にしがみついた。赤茶の髪を二つに結んだ三歳くらいの女の子だった。
「お兄ちゃん、おかえりっ!」
トールが片手でその子を抱き上げると、きゃっと笑った。
靴のつま先が、ぱっくり開いていた。縫い直した跡が二回分ある。革が限界で、縫い目から小さな指が覗いていた。
私は、目を逸らした。逸らしてから、逸らした自分が嫌になった。
ドルクがトールの盾を受け取った。受け取った瞬間、目が変わった。
飄々とした顔から、鋭さが浮かんだ。
職人の目。いや、それだけではない。
盾の歪みを指でなぞった。右腕一本で、鉗子の代わりに肘と体で盾を固定しながら、指先だけで歪みの深さを測っていた。
「影狼の番か」
トールの目が見開かれた。
「なんで分かるんだ。父ちゃん」
「俺がA級冒険者だった頃、塔で封印された種類だ。骨の鎧を持つ。当たった時の傷の入り方で分かる」
カイルの視線がドルクに向いた。
見る目が変わっていた。
ドルクの視線がカイルの剣の柄に一瞬留まった。動きが、ほんの一瞬止まった。でも何も言わなかった。
盾を作業台に置いた。
右腕一本で鎚を握り直して、鉄を見た。
作業台の隅に、古い革の手帳が開いたまま置かれていた。革の表紙が黒ずんでいる。綴じ紐が一箇所切れかけている。
開かれたページに、図解が描かれていた。線が細い。古代鍛冶式の術式図。目が、自然にそこへ吸い寄せられた。
文字が読めた。古い言語だった。レガリア以前の鍛冶記述。
術式の中に焔の循環系がある。はずだった。
指先が図解の一箇所を示していた。
「ドルクさん。この術式、焔の循環の項が抜けています。だから刃が一回打つたびに焼きが甘くなるんだと思います」
無意識に、口にしていた。
ドルクが鎚を置いた。私を見た。目が再び変わった。飄々としたものが消えて、奥に何かが灯った。
「お前、これ読めるのか」
「読めます。亡くなった祖父の本に、似たものがあったので」
半分だけ本当のことだった。
祖父の本はない。
前世で普通に使っていた古代語だった。
「じいさんの手帳だ。長年、読み手がいなかった」
「たぶん全部読めます。少し時間をください」
ドルクが黙った。パイプを噛む歯の音が、一度だけ鳴った。
「対価は」
「いりません」
「そういうわけにはいかん。俺の流儀だ」
少し考えた。
「一つだけお願いがあります。いずれ、あなたにしか作れないものを、一つ作ってほしい」
ドルクの手が止まった。パイプを口の端で、ぐっと噛み直した。
「俺にしか、ねぇ。お嬢ちゃん、随分面白いことを言うな」
「今すぐではありません。私が必要になった時に」
ドルクがじっとこちらを見ていた。パイプを咥えたまま、片目だけ細めて、私の目から視線を外さなかった。
「いいだろう。その時が来たら、俺が打つ」
「それと、そのほかの武器については報酬を払わせてください」
ドルクが短く頷いた。
「しかし、お嬢ちゃん。お前、ただ者じゃないな」
心臓が一度だけ速く打った。
「ノクスの加護です」
「ニャ」
ノクスが肩の上で鳴いた。
ドルクが笑った。
「そうか」
それ以上聞かなかった。ドルクが鎚を取り直した。
「手帳の解読、頼む。一項目ずつでいい。お前が来た日に、教えてくれ」
「はい」
トールが目を輝かせた。
「父さん、リーラさん、それって」
「お前の姐さんは、うちの新しい職人だ」
トールの顔が誇らしげに緩んだ。
「うっす!」
カイルが軽く頷いた。ミナが横で呟いた。
「姐さん、また仕事増やしてるじゃない」
「必要なことだから」
ミナが諦めたように笑った。
「まあ、姐さんらしい」
店を出る前に、もう一度末妹の靴を見た。ぱっくり開いたつま先。中の小指が覗いている。
小さな足が、石畳の上を駆け回っている。この靴で。
「お前、また肩入れしてるな」
ノクスの尾が、私の首の後ろで、一度だけ、長く揺れた。
「困ってる人を助けてるだけ」
「それが肩入れだ」
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