第38話 「銀貨四十枚」
あたしは、去年、人攫いに連れ去られた修道院の子を取り返しに行った。下層の港に近い廃倉庫だった。
トールが盾でドアを押し開けて、あたしは真正面の見張りを、最初の一投で仕留めた。
そこまでは、計算通りだった。
奥から足音が湧いた。聞いてた人数より、多い。五人。
ナイフを抜く前に、樽の影から男が一人、あたしの真横に飛び出した。
短剣の腹が、首に当たった。冷たかった。
六年前の路地裏が、頭の中に割り込んできた。腐った目の雇い主の指輪が光って、油の匂いが鼻の奥に戻ってくる。体が鉛みたいに重くなって、腰のホルダーに手が回らなかった。
短剣が、刃のほうに返った。
「動くな、嬢ちゃん」
男の息が耳にかかった。煙草と酒の匂い。あの夜と同じだった。
体が固まった。
奥で、トールが別の二人を盾で受け止めてた。剣が一人の腿を斬り、もう一人を盾ごと柱に押しつけて、柱がきしむ。
トールが、こっちを見た。
あたしの首に当たった短剣を見て、目が止まった。
剣を、捨てた。
石の床に剣を落として、盾だけ持って、あたしの方に走ってきた。
「えっ!」
あたしの首を抑えてた男が振り向いた瞬間、トールが男とあたしの間に自分の体を割り込ませた。
短剣があたしの首から離れた。トールの体が間に入ったから。
男が反射的に突いた刃が、トールの脇腹に刺さった。柄まで。
トールは倒れなかった。刺されたまま男の腕を掴み、盾で殴りつける。男が崩れた。
トールがようやく膝をついた。脇腹から血が石の床に広がっていく。
「トール!」
あたしは立ったまま動けなかった。油の匂いが鼻の奥にこびりついてた。あの路地裏と同じだった。恐怖で足が石のようになってた。
「ミナさん」
トールの声が、下から聞こえた。膝をついて、血まみれで、それでもあたしを見上げてた。
「頼むっす」
――その声で、油の匂いが消えた。トールは身を投げ出して、あたしを助けてくれた。
腰のホルダーからナイフを三本抜いた。一本目を階段の男に、二本目を木箱の上の男に叩き込む。三本目は、倒れていた男の喉に突き立てた。
倉庫が、静かになった。
奥の柱に、エマが縛られて口に布を噛まされてた。修道院で一番小さい子だった。柱の根元に、赤黒い紋様が床に描いてある。塗料じゃない、血だった。円陣の中に子供が座らされた跡がついてて、エマの前にも別の子がここに座らされたのだと分かった。
走って、口の布を抜いて、縄を切った。エマがあたしに抱きついて、泣いた。
「ミナ姉、ミナ姉」
エマの体が震えていた。
「無事よ。もう大丈夫」
口がやっと、動いた。
エマを抱えて立ち上がった時、倉庫の奥が目に入った。木箱の向こうにもう一つ部屋があって、扉が開いたままだった。
中に祭壇みたいなものがあった。蝋燭の燃え残りと、さっき柱の根元にあったのと同じ赤黒い円陣が床に描かれている。
壁に揃えて並べられた子供の靴が、七足。エマの分を入れたら八足だった。
あたしは何も言わず、エマの目を手で塞いだまま、倉庫を出た。
エマを連れて逃げた後、あたしはトールを背負って、半日歩いて、町の医者まで運んだ。
背負ってる間、トールは何度か意識を失った。失うたびに、あたしの肩越しに、つぶやいた。
「ミナさん、今日は本気出してなかったっすね」
「黙んなさいよ、死にかけてるくせに」
医者は「あと一刻遅かったら死んでた」と言った。
トールは十日寝込んだ。
最初の言葉は「修道院の子は無事っすか」だった。
――トールは、銀貨四十枚であたしを売らない。
* * *
「ミナさん、大丈夫っすか? さっきからぼーっとしてるっす」
トールの声で我に返った。夕日がトールの背中に当たってた。
「な、何でもないわよ」
ナイフのホルダーに手を当てた。
――次も、この背中のために投げる。
姐さんが隣を歩いてた。アロウィンの家を出てから、ずっと黙ってる。
――あたし、この人のこと、何か大事なことを忘れてる。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語を見届けたいと思ってくださったら、ブックマークと★で、そっと背を押していただけると嬉しいです。毎日更新しています。




