第36話 ミナ・ヴェルト
ミナは、姐さんの三歩後ろを歩いていた。ついさっき、白髪の幼女ばあさんが何か言っていた。すごく大事なことだった。
あれは何だったっけ。
思い出そうとすると、思い出そうとした事実ごと薄くなる。
――姐さんは、特別だ。
それだけが、残っていた。
谷の出口の手前で、姐さんが一度立ち止まった。アロウィンの家の方角を振り返って、何か言いかけて、やめた。
その背中を、あたしは見ていた。姐さんの肩が、行く時より下がってる。十八の少女の肩じゃなかった。
トールが先頭で盾を構え、カイルが一番後ろで全体を見る。あたしは姐さんの斜め後ろについた。いつの間にか出来上がっていた並び順だった。
街道に出る。トールが前を歩いてる。背中の盾が夕日に光ってた。
あたしは、その背中を見ながら、思い出してた。
――六年前。
下層スラムの、雨上がりの裏路地。地面の水溜まりに、油が膜を張っていた。その水溜まりの向こうに、男が立ってた。
――兄貴。
本当は赤の他人だった。半年だけ、同じ屋根の下で寝た男。
盗みに行った時、必ずあたしを先に逃がして、「お前は足が速い、先に逃げろ」って背中を押した男。
眉に古い傷があって、笑うとその傷が引きつる癖があった。引きつった顔が、あたしは好きだった。
ある夜、雇い主が裏路地に立ってた。太った中年の男だった。指輪が四つ、太い指の間にめり込んでた。目が、腐ってた。
本能が、わめいていた。逃げろ。逃げろ。今すぐって。
あたしは、兄貴の背中に隠れた。いつもそうしてきたみたいに。
兄貴の声が、頭の上で聞こえた。
「いくらで買ってくれるんだ」
――え?
太った男が言った。
「みすぼらしい娘だな。それにまだ幼い。面倒だ。相場の半分だ。手間賃込みで、銀貨三十」
「銀貨四十なら、考えてやる」と兄貴が答えた。
軽く、頷き合った。頷くのに合わせて、いつもの癖で、眉の傷が引きつった。
男は、兄貴は、笑ってた。
銀貨四十枚で、笑ってた。
吐きそうになった。信じてた。あたしは、この人を信じてた。
背中を押してくれた手も、先に逃げろって言った声も、全部。あたしを売るまでの嘘だった。
あたしだけが、家族だと思ってた。
怒りは湧かなかった。頭が真っ白で、ただ一つだけ分かった。
――ここに、あたしの居場所はもうない。
ナイフが、勝手に飛んだ。子供の細い腕が投げたナイフだった。狙いなんかなかった。
兄貴の膝に刺さったのは、ただの偶然だった。兄貴は呻いて、片足で逃げた。引きずる足を、雨が打ってた。
腐った目のおっさんが、舌打ちして、反対方向の路地に消えた。
あたしは雨の中で、ひとりで、立ってた。
膝が、笑ってた。
走った。裸足で、どこに向かってるかも分からないまま。人の声が聞こえたら路地に逃げた。
何日そうしてたか分からない。気づいたら下層修道院の裏口で倒れてて、シスターに拾われた。
三日間、口を聞けなかった。喋ろうとしても、喉から息しか出なかった。
最初の一年は、誰にも触らせなかった。
シスターたちは何も聞かなかった。ただ毎朝、あたしの分のスープを置いてくれた。
二年目に、初めて配膳を手伝った。
三年目には年下の子たちの面倒を見るようになって、いつの間にか「姐さん」って呼ばれてた。
四年目、十六になって、冒険者ギルドに登録して修道院を出た。
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