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第33話 「儂が一番目じゃ」

 谷の最深部に、小さな石造りの家があった。周囲だけ重力が安定していた。結界の気配。古い術式。私の知っている構造に近い。


 足を踏み入れた瞬間、体が軽くなった。正常な重力が体を包んで、内臓が正しい位置に戻った。


 玄関を叩いた。扉が開いた。女性が立っていた。


 落ち着いた知的な目。淡い金の髪を後ろで束ねている。髪の隙間から、長い耳が覗いていた。翡翠の瞳。


 エプロンの裾に粉がついている。見た目は三十代半ばだが、エルフなら実際の齢は桁が違う。



「お待ちしておりました」


「あなたが、アロウィン・ヴェスタル様?」



 女性が穏やかに微笑んだ。



「いえ、私は侍女のエルザでございます」



 年齢は読めなかった。二十にも、二百にも見えた。



「あ、失礼しました」


「皆様そう仰います」



 中に通された。


 石壁に古い書物が積み上がっている。暖炉の上に乾燥した薬草の束。


 テーブルの上にカップが五つ並んでいた。エルザが、私たち四人とアロウィン様の分を、初めから用意してくれていたらしい。ひとつだけ、すでに湯気を立てている。アロウィン様の分なのだろう。


 待っていたようだ。


 奥の扉が開いた。


 ぴょこっ、と。


 雪のような白い髪が腰まで真っ直ぐに落ちていた。空色の瞳。十歳にも満たない見た目の幼女が、扉の影からこちらを覗いていた。


 全員が固まった。


 幼女が一歩前に出た。足音は軽いのに、足の運び方だけが老人だった。



「ふむ、やっと来たな、お前さん」



 声が低かった。見た目に似合わない、深い声だった。何十年もの時間が、言葉の一つ一つに染み込んでいた。



「あ、あなたが」



「儂が一番目じゃ。アロウィンと呼んでくれ」



 カイルの手が剣の柄に触れた。



「何の冗談だ」



 アロウィンが空色の目でカイルを見上げた。


 目の高さが、カイルの腰にも届かない。



「冗談ではない。儂は七つで時が止まった。もう五千と七十七歳じゃ」



 時が止まった。


 五千年。前世も含めての、想像を絶する時間。


 私だけが、その意味を理解していた。


 アロウィンの視線が、ゆっくり私に戻ってきた。


 空色の瞳の奥に、覗き込んだらこちらが落ちるような深さがあった。



「お前さんも、聞いたじゃろう」



 短い問いだった。説明はなかった。それでも、私には分かった。



「七歳の、冬」



 口が、勝手に動いた。



「あなたは第」



 途中で言葉が、喉に詰まった。アロウィンが小さく頷いた。



「あの夜の声を聞いた者は、似た気配を持つ。儂と、九番目のお前さんとあと七人」



 部屋の空気が、一段沈んだ。背後で、息を呑む音が三つ重なった。ミナが小声で呟いた。



「え、九使徒の、九人目?」



 私の心臓が、一度、強く打った。



 ――契約。



 神との契約。


 正体がバレたら、私の十八年間の記憶が消される。


 両親の顔も、ノエルとの指切りも、ノクスとの日々も、全部。


 今、三人が知った。


 私が九番目の使徒だと。


 肩が強張った。


 指先が冷えた。



「心配するな」



 アロウィンの小さな手が、私の手の甲をぽん、と一度だけ叩いた。


 子供の手だった。でも、長く生きた者の手だった。



「儂が間に入っとる。ここで知られたことは、記憶消去の条件には数えられん」



「記憶は、消えないんですか」



「ああ。儂の家は、神の検閲が届かん場所じゃ。儂が長い時間をかけて、神と少しずつ交渉してきた結果じゃよ。一番目の特権じゃ。先輩としての」



「ただし、お前さんの仲間も、ここで聞いたことは、外に出れば曖昧な記憶になる仕掛けじゃ」



「そうしないと、世の理が保てんからのう」



 息が、ようやく吐けた。


 ゆっくり振り返った。カイルが、こちらを見ていた。剣の柄から、指がそっと離れた。表情は変わらなかった。


 だが、目の奥が、確信した後の色をしていた。



「カイル、私」



「無理に言わなくていい」



 記憶が消えるという話を聞いた直後なのに、声が揺れていなかった。



「昨日、聞かないと言った。あれは今日も、明日も変わらない」



 もし記憶が消えたら、この人のことも忘れる。


 昨夜の手の感触も、今の声も、全部。


 ――この人は、知らないままでいいと言ってくれる。


 その一言だけで、私は泣きそうになった。


 トールが頭を掻いた。



「九使徒とか、正直よくわかんないっすけど、リーラさんはリーラさんっすよね?」


「当たり前でしょ」



 ミナが呆れたように言った。それから、私の方を見た。



「姐さん。聞いたところで何も変わんないわよ。あんたは、あたしらの仲間でしょ」



 ミナの目に、迷いがなかった。


 九人。私の中で、何かがすとんと落ちた音がした。同じ声を聞いた者が、この世界にいる。十年の孤独が、初めて誰かと重なった。


 そして、目の前にいる三人も、知った上で、私のそばにいてくれる。


お読みいただき、ありがとうございました。

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