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第32話 「岩壁の陰から」

 谷の中腹で、空気が変わった。岩壁の陰から、黒い影が三つ、同時に這い出した。


 フードを被った人間。腰に短剣。


 手に魔晶石を削った投擲具。


 足元を見た。全員の靴底に鉄の鋲が打ってあり、岩壁にロープを通したアンカーが腰に繋がっていた。


 この地形に慣れている。先頭の男が片手を上げた。後ろの二人が、その合図で同時に足を止めた。


 慣れた指揮だった。目だけがフードの下で光っている。中肉中背。


 だが、立ち姿が違った。重心が低く、両足の幅が肩より少しだけ広い。


 剣を抜いていないのに、腰の鞘の角度だけが、いつでも抜ける位置にあった。


 普通の戦闘員じゃない。手練れの動きだった。



「両方確保しろ。猫と少女、生きたままだ」



 部下の一人が、低く応じた。



「了解、親方」




 「両方」という言葉が、耳の中で反響した。



 カイルが剣の柄に手をかけた。



「両方? どういう意味だ」


「分からない」



 嘘だった。彼らが何を求めているか、分かっていた。


 親方の男が、フードの下で笑った気配があった。



「お嬢ちゃん、おとなしくしてくれりゃ痛くはせん。猫もだ。上が直接確かめたいんでな」



 上。あの仮面の男の顔が、頭をよぎった。息が、止まりかけた。


 カイルが私の前に半歩出た。剣の柄を握り直す音だけがした。



「カイル様。あんたも、お役目を捨てたわけじゃあるまい。下がっとれば、女の方は無傷で連れていく」



「断る」



 カイルの声が、いつもより一段低かった。



「では、力ずくでな」



 親方の指が、軽く弾かれた。戦闘が始まった。


 両脇の男二人が同時に動き、一人がカイルに、一人がトールに向かった。連動が滑らかだった。練度が、これまでの結社員と段違いだ。


 カイルの剣が一発目を弾く。同時にトールの盾が一発目を受け止め、鉄板が鳴った。


 親方の右手が腰の鞘に走った。抜く瞬間が見えなかった。気付いた時には、刃が私の肩のノクスに向かって走っていた。



「まず猫だ」



 唇が、動いた。声にならない古い言語が一節、喉の奥から漏れた。ノクスの体の前に、薄い膜が一枚、張られた。


 親方の短剣が、その膜の上で、ぴたりと止まった。膜が弾けて、刃が逸れて、岩壁の隙間に弾かれた。


 親方の目が、一瞬こちらを向いた。



「ほう? 声を出したな」



 心臓が一度、強く打った。親方の口の端が、フードの下で動いた。



「お嬢ちゃん。お前、今の、魔法か?」



 声を殺した詠唱を、聞き取られた。背筋を冷たいものが走った。


 カイルが踏み込んだ。剣が親方の短剣を弾き、そのまま体を回転させて私を背中に庇った。


 背中で守る。剣の角度で道を作る。視線は前を向いたまま、背中だけが私を知っている。



「リーラ、後ろに」



 後ろに下がった。本当は戦える。でも、戦えば正体がバレる。守られる側でいるしかない自分が、悔しかった。


 親方とカイルが、剣を交えた。一合、二合、三合。カイルの剣が押されていた。


 親方の動きが速い。剣筋が読めない。カイルの目が、今まで見たことのない緊張を帯びていた。


 トールが盾を構えて通路を塞いだ。


 盾に魔力を流して表面を硬くするシールド。


 攻撃も回復も使えないと、ギルドで聞いていた。トールが使える唯一の呪文のはずだった。


 盾の表面が淡い光を帯びて、結社員の短剣を弾いた。



 唇だけで古い言語を一節、重ねた。トールの盾に薄い結界が乗った。



 トールは気付いた様子がない。ミナが投擲ナイフを二本、同時に放った。


 一本が結社員の肩に刺さり、もう一本がフードを裂いた。カイルの脇の隙間から、フードの下の若い顔が一瞬だけ覗いた。


 親方とは目の色が違う。その横で、肩のノクスが、戦闘中の私の耳元で低く呟いた。



「俺を狙うとは、いい度胸だ」



「ノクス、威厳出してる場合じゃないでしょ」



「威厳は出すものじゃない、滲み出るものだ」



 戦闘の真っ只中で、ただの猫のふりをした使い魔がそんなことを言う。


 緊張で固まっていた肩から、ほんの少し力が抜けた。



「ほんと猫」



 口の端が、勝手に緩んだ瞬間、カイルの剣が、親方の腕を浅く斬った。


 深くはなかった。革の袖が裂けて、血の線が走った。それで、十分だった。


 親方の動きが、一瞬だけ、遅れた。ミナの三本目のナイフが、その遅れを縫って飛んだ。


 親方の太腿に刺さる。トールの盾が、ナイフの軌道に合わせて横から親方を殴りつけ、その体が岩壁に叩きつけられた。



「撤退だ」



 親方の男が、低い声で部下に命令した。



「今日は無理だ。お嬢ちゃん、いずれまた」



 親方が何か小さな筒を地面に投げつけた。煙幕が炸裂して視界が真っ白になり、晴れた時には岩壁の隙間に、三人の影が消えていた。


 倒した、というより、逃げられた気がした。谷に静寂が戻った。


 ノクスが私の肩から飛び降りて、岩の上にちょこんと座った。前足を揃え、尻尾を体に沿わせて、無表情な顔で岩壁の隙間の方を見ている。



「ノクス、おすまししてるの? こんな時に。別に威厳も何もないわよ」



「おまえ、どこに逃げたか音で探ってるんだ。それに、威厳は普段からにじみ出ているから大丈夫だ」



「そういうところ、ほんと猫」

お読みいただき、ありがとうございました。

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