第31話 天落ちの谷
天落ちの谷は、ヴィルヌアの東の丘を二つ越えた先にあった。谷の入口に足を踏み入れた瞬間、世界が変わった。
内臓がせり上がる感覚。地面が、足を押し上げてくるのではなく、吸いつくように引いた。空気の密度が変わって、呼吸のたびに肺の中身がずれる。
カイルが足を止めた。
「気をつけろ。足を地面から離すな」
トールが盾を握り直した。
「うっす!」
ミナが顔をしかめた。
「気持ち悪いわね、これ」
谷の斜面を慎重に降りた。岩壁は古い。レガリア期の刻印が所々に残っていて、風化した紋章が苔の下から覗いている。
――知っている。
この場所を、知っている。
重力魔法の暴走が固定された場所。影の枝が折れた時、術式の均衡が崩れて、この一帯の重力場が反転した。
直せる。式の構造は分かっている。
分かっているが、直したら、私の力がバレて記憶を失う。
「影の枝」
カイルが呟いた。視線は岩壁の刻印に落としていた。
「魔法の根は六本ある、火、水、風、土、光、そして闇。最後の一本だけが、五千年前のある夜に折れて、闇と重力の二属性が世界から消えた。それが影の枝だ」
「博識ですね」
「王宮の必読書だ」
短い答えだった。
――直接、見ていた。
あの夜のことを。
ここの重力が逆になっているのは、その時の余波だった。完全に消えきらなかった重力魔法が、谷の底に閉じ込められたまま反転している。現代では誰も使えない式だ。私だけが、まだ構造を覚えている。
ノクスが言った。
「声を殺して微調整しろ。バレない範囲で」
頷いた。唇だけを動かして、聞こえない声で古い言語を紡いだ。足元の重力が、ほんの一層だけ安定した。
谷の中腹まで降りた時だった。ミナの足が、湿った岩で滑った。
「あ――」
ほんの一瞬、足が浮いた。それだけで終わるはずだった。
普通の重力なら、その場でよろけて立ち直って終わっていた。ここは普通の重力じゃなかった。
逆重力が、待っていたとばかりにミナの体を引き上げ始めた。足の裏が地面から完全に離れた。
腕が空を掴んだ。掴むものがない。
引き上げられる先は谷の天井。いや、その先の空。
永遠に止まらない。
「いやっ、いやだ、いやぁぁぁっ!」
ミナの叫びが谷壁に反響した。手が虚空をかいて、髪が逆さまに広がった。スカートが逆さまに翻った。
あと数秒で、彼女は完全に空に攫われる。
「ミナさん!!」
トールが盾を岩壁に打ち込んで体を固定したまま、空いた手を伸ばした。届かない。指先がミナの靴底を掠めて、すり抜けた。
「ミナさん、ミナさんっ!!」
声が裏返っていた。顔から血の気が引いている。
ノクスの耳が動いた。
唇だけで、声を殺した詠唱を紡いだ。ミナの周囲の空間が一瞬歪んで、体がふわりとこちらに浮いて、戻ってきた。
ミナの体が弧を描いて戻ってきた。トールの腕が抱き止めた。
ミナがトールの胸にぶつかって、息を呑んだ。スカートがもう一度逆重力で翻りかけた。
トールの空いた手が、反射で、押さえた。
盾は岩壁に刺さったまま。両手が空いた状態で、抱き止めて、押さえた。本人にとっては救助動作の延長にすぎないらしい。
私の視界の隅に、黄色が入った。
「黄色」
私の口から、漏れた。咄嗟に手で口を塞いだ。
遅かった。全員に聞こえた。
ミナの顔が、首筋から耳の先まで一瞬で沸騰した。
「ち、ちが、」
「ミナさん、暴れないでくださいっす。アンカーが外れるっす」
トールが真顔のまま言った。
「く、暴れてないわよ!」
「足、動いてるっす」
「無意識よ!」
「無意識でも動いてるっす」
「だから無意識って言ってんでしょ!」
叫んだ瞬間、また足が宙でじたばた動いた。スカートがもう一度浮きかけて、トールの手が押さえ直す。
「み、見てなくても押さえてんでしょっ!」
ミナの目に涙が滲んでいた。
「だって浮いちゃうっす」
正論だった。
正論が一番つらい瞬間だった。
ミナが、ぐったりとトールの胸に顔を埋めた。耳が真っ赤だった。指の先まで赤かった。
観念したのか、それ以上抵抗しなくなった。
「もういい」
声が消え入りそうだった。
「ミナさん、なんか言ったっすか?」
「いい。あ、ありがとう」
最後の「ありがとう」だけ、トールにしか聞こえない声量で、こぼれた。
ミナはトールの胸に顔を埋めたまま、もう顔を上げなかった。ノクスが私の肩で耳を一度伏せた。
「あの娘、可哀想なくらい器用にトラブルに巻き込まれるな」
「言わないであげて」
ミナとトールが安定したのを確認して、息を吐いた。気が緩んだ瞬間、足元の重力の安定が、ふっと揺らいだ。
足が、滑った。
「あ――」
体が浮いて、腹の底が消えた。
天井と床が入れ替わる。
数秒、宙に放り出された。視界が傾いて、髪が顔に散らばる。
カイルの腕が伸びた。何の躊躇もなかった。腰を引き寄せられた。
顔がカイルの胸に押し付けられた。革の胸当ての表面が頬に当たって、その下の心臓の音が伝わった。
速かった。
「掴まってろ」
声が低くかった。
「カイル、自分で」
「離さない」
言葉が止まった。カイルはそのまま片手で私を支えながら、もう片方で剣を構えて谷を進み始めた。
私の体を庇いながら歩く時の重心の移し方が、冒険者のそれではなかった。
剣の角度。肩の位置。足を運ぶ順番。護衛の所作だった。
「あの男、お前に王子バレしてからタガが外れたな」
ノクスは私にだけ聞こえるように、呟いた。顔が熱い。
重力が逆だろうとなかろうと、血は頬に集まる。
「抱えられて怒らん時点で、答えは出てるだろう」
「黙って」
カイルの胸当ての縁に、ノクスが爪を立てた。ガリッ。ガリッ。
カイルが片眉を上げた。
「猫殿、また爪か」
カイルが小さく息を吐いた。ノクスは爪を立てたまま、私の頬に鼻先をすりっと押しつけてきた。短い髭が頬をくすぐった。
それから体全部を、私の首筋から鎖骨にかけて、枕に寝そべるみたいに預けてきた。重みが、温かかった。
私のものだ、と言うように。
ノクスが言った。
「お前を抱える男は、まず俺の許可が要る」
小さく笑った。
「ノクス、もうやめて」
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語を見届けたいと思ってくださったら、ブックマークと★で、そっと背を押していただけると嬉しいです。毎日更新しています。




