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第3話 「お姉ちゃま、おはよう!」

 自室を出て、二階の廊下を歩いた。


 ヴェイン侯爵家の本邸。古い石造りの大邸宅で、三階建て。薬草園を鋳鉄の柵が囲み、正門の上には代々の家業、医療と治癒を示す青銅の蛇杖の紋章が刻まれている。私の部屋は二階の南棟で、窓から薬草園と中層の屋根が見渡せる。


 階段を降りると、食堂の扉の隙間から声が漏れていた。歌だった。子供の声で、澄んでいて力みがなく、即興で言葉が変わる癖のある旋律。母が教えた童謡を自分流に崩していて、胸のどこかが温かくなった。



 千年聞ける、と思った。



 前世で聞いたどの旋律より軽くて、温かかった。歌が止まった。



「ノクス様! もっふもふもふ!」



 ノクスの耳が立った。肩から滑り降りて、私の背中に回り込もうとした。



 間に合わなかった。



「ノクス様、おはようございます!」



 六歳の妹が両手を広げて突進してきた。金色の髪が走る勢いで揺れている。ノクスを抱きしめ、頬ずりし、尾を握った。



「毎朝これか」



 ノクスの声が、私だけに届く小ささで漏れた。



「我慢して」


「俺は、契約を見直したい。リーラ」



 ノクスがノエルの腕からするりと抜けて私の肩に避難した。


 ノエルが空になった両手を見て名残惜しそうに笑い、すぐに気を取り直して私を見上げた。


 金色の前髪が頬にかかって寝癖がまだ取れていない。


 右の頬に枕の跡が薄く残っていた。



「お姉ちゃま、おはよう!」



 胸の奥で、何かが小さく動いた。


 食堂のテーブルで、父が新聞を畳んだ。ヴェイン侯爵。ヴィクター・ヴェイン、四十五歳。


 黒髪に白いものが混じり始めた代々の医者家系の現当主で、王家お抱えの侍医も務めている。今朝は王城へ往診の予定らしい。


 テーブルの隅には紋章入りの書状が置かれ、その横でコーヒーから湯気が立っていた。


 新聞をテーブルの端に寄せて、父が顔を上げた。


 私の顔を見るとまず読みかけを置くのが、父の癖だった。何より娘の朝食を優先する人だった。



「リーラ、今日はどこへ?」



「市場で薬草の仕入れと、それからギルドで依頼を一つ」



 ギルドの依頼―――



 古い術式の痕跡がある依頼だけは必ず受ける。五千年前に滅んだはずの魔法が、なぜか各地に残っている。誰が、何のために。



「怪我するなよ」



「うん」



 父が低く付け加えた。



「最近、街が、少し、ざわついている。王城も、陛下と兄殿下の様子が前と違う。今日から邸の警備を増やす。お前も、夜遅くに一人歩きはするな」


「うん」



 毎朝、同じ言葉だった。毎朝、同じ返事。五年間変わらないやり取りの中で、今朝だけ一言多かった。


 席に着いた。


 料理長が用意した焼きたてのパンと湯気の立つスープ、薬草入りのオムレツ。パンを千切って口に運ぶとバターが舌の上で溶けた。


 スープを一口、オムレツを半分。短い時間で食べきる癖は前世から抜けない。


 食堂の奥の扉が開いて、母が温室から戻ってきた。エプロンの裾で手を拭いている。


 エレイン・ヴェイン侯爵夫人、四十二歳。銀混じりの淡い金色の髪を後ろで束ね、薬草の汁が染みた指先を絹のハンカチで拭いている。元中央図書館の司書で今でも薬草学の論文を書く母は、朝は決まって温室で植物の世話をしている。


 私の紫の瞳は母から受け継いだものだ。



「お弁当の薬草、私が選んで入れておいたから」


「ありがとう、お母様」


「ノクス様もお腹を空かせないようにね」


「お前の母親は、俺を本気で猫扱いだな」



 肩の上でノクスが短く鳴いた。母様には、返事をしたように聞こえたみたいだ。


 ノエルがテーブルの脇まで駆けてきて、私の肩からノクスを攫った。両手で抱え直して、目を輝かせて私を見上げる。



「お姉ちゃま、聞いて聞いて! 昨日、お母様にカモミール教えてくれたの!」


「うん」


「カモミールは、よく眠れるようになる花! 白くて、真ん中が黄色! 葉っぱはギザギザ!」



 両手をぱっと広げて説明するものだから、ノクスがその拍子で腕から放り出されて、宙で身を捻ってどうにか床に着地した。



「へえそうなんだ。すごいね」


「えへへ」



 ノエルが照れて笑った。両頬にえくぼができて、欠けた前歯がちらりと見えた。歯が生え替わり中らしい。


 胸の奥がきゅうっとなった。最後の一口を飲み込んで椅子を引くと、ノエルが膝にしがみついてきた。


 腰を落として、目線を合わせた。



「お姉ちゃまの髪、わたしと違う銀色だね」


「うん」


「きれい」



 短く、迷いのない声だった。お世辞を知らない子の言葉。



「ありがとう」



 声が少しだけ詰まった。


 額を合わせると、前髪が触れてほんの少しくすぐったかった。ノエルの額は温かくて、寝起きの体温が残っていた。



「絶対に帰ってきて」


「うん、絶対」


「約束」


「約束する」



 ノエルが小指を差し出した。


 私が小指を絡めた。



「ゆーびきーりげーんまーん」



 ノエルが歌うように指切りの言葉を唱えた。



「うそついたらー」



「針千本のーます」



 最後だけ、私が乗った。


 声を合わせた。


 ノエルの目が、嬉しさで見開かれた。



 うん、これは、駄目だ。



 二百年生きて、最強で、孤独で、誰にも愛されないと思っていた魔女が、六歳の妹に指切りで完全に陥落した瞬間だった。


 ノクスが私の肩に戻って、私だけに聞こえる声で言った。



「お前、顔がだらしない」


「黙って」


「事実だ」


「黙って」



 ノエルがそれに気付いて、ノクスを指差した。



「ノクス様、お姉ちゃまに何か言ったの?」


「ニャ」


「お返事した!」



 ノエルが飛び上がった。



「お姉ちゃま、ノクス様、わたしのこと褒めてくれた?」


「うん。褒めてくれた」


「嘘をつくな」



 ノクスはしっぽを震わせた。



「黙って」



「いってきます」



「いってらっしゃーい!」



 ノエルが両手を振った。庭の薬草園の前で、金色の髪が朝陽を受けて柔らかく揺れている。


 正門を出た。


 背中で、ノエルの歌がまた始まっていた。



 絶対に、この家族は失いたくない。



 足が一度、止まりそうになった。


 止めずに歩いた。

お読みいただき、ありがとうございました。

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