第2話 「リボンはちゃんと結べ」
瞼が半分しか上がらなかった。髪が頬に張りつき、息が浅い。天井の染みがぼやけて二重に見えた。
爪を出さない前足が伸びてきて、頬に張りついた髪をノクスの肉球がそっと払った。ひんやりした感触が頬を横切って、髪が枕に落ちた。
「依頼の時間だ」
枕元で黒猫が喋っている。ノクス。私の使い魔で、人間の言葉を話すが声が聞こえるのは私だけだ。他の人には普通の黒猫に見える。
「ん」
「起きろ」
「あと、三分」
「お前の三分は二十分だ」
「知ってる」
目を擦ろうとした手が頬の途中で止まった。湿っている。
額も、こめかみも、涙で濡れていた。
枕元で金色の目がこちらを見ていたが、何も聞かなかった。尾の先が一度だけ揺れて、止まった。
(――また、あの夢か)
自分の手を見た。小さかった。山脈を消した大魔女の手ではなく、十八歳の普通の娘の手だ。
五千年前の話だ。もう終わったこと。
灰と、血と、届かなかった指。
でも夢の最後に、フィンが何か言った。いつも言っていた言葉。
「――――か」
目が覚めるとそこだけ消える。転生してから十八年、一度も思い出せたことがない。
今日も始まる。前世の力を隠して、普通の娘のふりをする一日が。
前世の記憶は断片的にしか残っていない。私は何者で、五千年前に何があったのか。宮廷の社交界や侯爵家の書庫では、そんな手がかりは見つからない。
古い遺跡、魔物の棲む洞窟、廃墟の地下。ギルドの依頼でしか踏み込めない場所に、前世の欠片が眠っていることがある。
起き上がって着替え、外套の襟を直して髪を束ねにかかった。リボンが左に曲がった。解いて結び直すと今度は右に曲がり、もう一度解いて結んでもまだ曲がっている。
窓枠の上からノクスが見下ろしていた。
「また曲がってる」
「見なかったことに」
「嫌だ」
指先でリボンの端を引いたら、余計に歪んだ。
「結べない大魔女、世界でお前だけだぞ」
「山脈は消せる」
「リボンはちゃんと結べ」
三回目の結び目は、かろうじて左右対称に近かった。ノクスの耳が片方だけ倒れた。合格とも不合格ともつかない耳だった。
ブーツの紐を結ぶ。
紐を通す穴が少し広がっている。三ヶ月前に買ったばかりなのに、もう馴染んでいた。
ノクスを抱き上げると、腕の中で一度だけ身じろぎしてから肩に登った。前足が鎖骨を踏み、首筋に頭を寄せて、いつもの定位置に収まった。
「重い」
「鍛えろ」
「ノクス、偉そう」
「偉いんだ」
今日も依頼がある。その前に、まず朝食だ。
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