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第1話 同じ夢

 ―――夢だった。



 同じ夢を、転生してから、繰り返し見ている。五千年前、前の体で生きていた頃の、最後の旅の記憶。


 あの頃、私は大魔女と呼ばれていた。


 人間の体で二百年を生き、人を遠ざけ、一人で戦い、一人で眠る。人間は私を恐れ、魔物も私を避けた。二百年、誰も隣にいなかった。


 その日、塔の前に立っていたのは、三人組の使者だった。長く、人間が寄りつかなかった場所だ。三人とも、膝が笑っている。



「お、お願い申し上げますっ。東の山脈の、フレイムドラゴンを――」


「五年に一度、麓の村を焼くのです。討伐軍は二度、全滅いたしました」


「ど、どうか、大魔女様のお力を」



 書状をテーブルに置く手が、震えていた。返事も待たず、逃げるように去っていく。


 断るつもりだった。


 私の使命は世界の秩序を乱すものを排除すること。


 フレイムドラゴンは厄災だが、竜は生態系の頂点として神が据えた装置の一つでもある。


 五年に一度の捕食は、残酷だが秩序の内側にある。



 ―――フィンが来たのは、その翌日だった。



 王国の騎士団長。剣の腕は国一だが、魔法は使えない。


 竜の鱗は剣では斬れないと分かっていて、それでも討伐を引き受けた男だった。



「俺一人じゃ勝てない。手を貸してくれ」



 騎士団長が大魔女に頭を下げている。国で一番強い剣士が、自分では足りないと認めて、恐れられている魔女の前に立っている。



 断った。



 人間の都合だ。私には関係がない。


 フィンは黙って革袋から何かを取り出した。



 焼け跡の村で拾ったのだろう、子供の靴が片方だけ黒く焦げて、紐が半分溶けていた。



 テーブルの上に置いて、それ以上何も言わなかった。神の使いにとって、使命の外の仕事は無意味だった。



 それなのに心が動いた。理由は言葉にできなかった。気づいたときには荷物をまとめて、フィンと歩き出していた。



 それから二人で火山を目指した。


 七日間の旅の四日目の夜。


 道中の魔物はいちいち覚えていない。焼いたか、吹き飛ばしたか、どちらかだ。


 ついでに森が何個か消えた。


 毎朝、フィンは同じことを聞いた。



「大丈夫か」



 大魔女に大丈夫かと聞く人間。


 二百年で初めてだった。



 初日は意味が分からなかった。

 二日目は呆れた。

 三日目には、少し嬉しかった。

 四日目の今朝も聞かれて、「大丈夫」と返した。



 フィンは「そうか」と言って水筒の水を分けてくれた。


 道中、私の魔法の余波を近くで浴びても、フィンは眉一つ動かさなかった。


 怖くないはずがない。それでも逃げない。


 そういう男だった。



「お前の魔法、加減ってもんがないな」



 焚き火に枝を突っ込みながらフィンが言った。


 さっき森を半分消し飛ばした魔女に、まるで焚き火の薪の量に文句をつけるような口ぶりだ。



「あなたが近すぎるのよ。もっと離れて戦えばいいのに」


「離れたらお前の背中ががら空きだ」



 フィンが枝で焚き火を突いた。



「魔法の詠唱中、周りが見えてないだろ」



 二百年の間、私の背中を心配した人間はいなかった。私の隣に立てる人間が、そもそもいなかったからだ。


 フィンが空を見上げた。



「きれいだな」



「何が」



「その歌。魔法だろ」



 二百年、誰にも言われなかった言葉だった。



 返す言葉を探しているうちに、フィンは火に目を戻していた。



 虫が一匹、炎の縁すれすれを飛んで、炎に飛び込んだ。それは竜討伐に向かう私たちと重なった。



 ―――夢が変わった。



 七日目。


 火山のフレイムドラゴン。


 赤い岩肌が剥き出しだった。


 火口の縁に立つと地面から熱が這い上がってきて靴底が焦げ、硫黄の匂いが空気を満たしていた。


 黒い煙が火口の奥から湧き上がり、陽炎が視界を歪ませて、何もかもが揺らいで見えた。


 火口の底に、それがいた。


 背後にフィン。



 眼前にフレイムドラゴン。



 火口に立った瞬間、その理由がひと目で分かった。


 火山そのものが竜の巣だった。


 五十メートルを超える巨体が溶岩の上に(うずくま)り、赤黒い鱗の一枚一枚が盾ほどの面積で、吐息だけで足元の岩が溶けていた。


 金色の瞳がこちらを見据えている。


 神がこの山脈に据えた厄災。


 これを人間の剣で斬れと命じた王国も、引き受けたフィンも、どうかしている。



 フレイムドラゴンが、翼を広げた。


「ゴ、ゴオオオオオオオッ――――!!」


 咆哮が火口全体を震わせる。一度の羽ばたきで巨体が浮き上がり、熱風だけで火口の縁の岩が砕けて、転がり落ちた。



 フィンが、岩陰に身を滑り込ませる。


 上空で口腔が開いた。喉の奥で炎が渦を巻き、火のブレスが火口の縁を薙ぐ。触れた岩が溶け、地面が溶岩に変わっていく。


 私は片手で結界を張った。炎が表面を流れて左右に割れ、髪一筋にも触れない。


「お前、無傷かよ」


「この程度なら、片手で十分」


 答える間にも、ブレスが止む前にフレイムドラゴンが翼を畳んだ。


「来るぞ――!」


 フィンの叫び。巨体が隕石のように急降下し、影が丘を丸ごと覆った。火口ごと潰す気だ。


 フィンが岩陰から転がり出て、崖際ぎりぎりまで走って躱す。崩れかけた足場に剣を突き刺し、体を支えた。


 私は動かない。結界を両手に切り替え、頭上へ展開する。


 竜の重量が結界にのしかかった。岩盤に亀裂が走り、火口の縁が半分崩れる。――それでも、破れない。


 受け止めたまま、押し返した。弾かれた巨体が、翼を開いて立て直す。


 今度はこちらの番だ。



 焔を放った。



 白い光の奔流がフレイムドラゴンの胸を打って、赤黒い鱗の表面で弾けて四方に散った。


 飛び散った焔が周囲の岩を蒸発させ、足元の地面を硝子に変える。


 鱗には焦げ跡が一筋残っただけだった。



「効いてんのか、それ」


「炎の竜よ。熱が、ほとんど通らないの」



 もう一発。


 両手で束ねた焔が竜の首を薙ぎ、逸れた光が背後の山肌を抉って岩盤が溶け落ちた。


 首の鱗が一枚、付け根から吹き飛んだ。


 盾ほどの破片が宙を回転して火口に落下し、溶岩の中に沈む。



 たった一枚。



 剥がれた跡を見ると、下にまた別の鱗がびっしり並んでいた。


 二重、三重の鎧だ。



「一枚ずつじゃ、日が暮れる。――フィン、十秒もらうわ」


「何する気だ」


「根源魔法。鱗ごと、焼き尽くす」


 結界を閉じ、両手を突き出して術式を編み始めた。声が空気を震わせる。あと数節で、完成する。


 フレイムドラゴンの尾が空気を断った。私に向かって薙いでくる。


 両手が術式に取られている。結界に回す手がない。


 止められない、避けられない。


 視界の端で、フィンが動いた。



 死ぬな、と思った。理由は分からない。ただ、この男に死んでほしくなかった。



 私とフレイムドラゴンの間にフィンが割り込んだ。



 尾が迫る。



 避けない。



 逆手に構えた剣が鱗の隙間を裂いて、竜の喉から赤い血が噴いた。


 同時に尾がフィンを叩いた。体が弧を描いて飛んで岩壁に叩きつけられ、そのまま動かなくなった。



「ガ……ッ、ガアアアアアッ――――!!」



 喉から血を撒き散らし、フレイムドラゴンが苦悶に身をよじった。その隙で――十分だった。


 詠唱を完成させた。怒りが声に乗った。止める気がなかった。


 光がフレイムドラゴンを貫いて、そのまま山脈の向こうまで走った。


 山脈が稜線(りょうせん)ごと消えた。


 湖が干上がって湖底が白く焼け、森が消え、街道が断たれ、空が赤く染まった。


 白い灰だけが、音もなく降り積もっていく。



 フレイムドラゴンは灰になった。



 鱗の破片すら残っていない。


 竜を殺すためではなかった。


 フィンを叩きつけた怒りが、止まらなかっただけだ。



 ――走った。



 灰を踏んで、灰を巻き上げて、フィンの元へ。


 岩壁の下に倒れていた。


 出血が


 多すぎた。


 膝をついてフィンの頭を持ち上げると、白い灰が降りかかっている。


 フィンの顔に、髪に、私の手に、音もなく積もっていく。


 回復の術式を口にした。


 傷を治し、血を止め、骨を繋ぐ、何百回と唱えてきた呪文だ。


 傷口が塞がらなかった。


 もう一度。


 声が裏返った。


 もう一度。


 古い言語が喉を焼いた。光がフィンの体を包んだが、肉が閉じない。血が引かない。



 灰だけが積もっていく。



「やめろ」



 フィンの目が薄く開いた。


 焦点は合っていない。



「喉が、枯れる。もったいない」


「黙って。集中させて」


「きれいだな」


「何を――」


「その歌。最初に聞いた時から、ずっと」



 声を絞り出して術式を紡ぎ直した。


 光がフィンを包んだが、灰が舞うだけで何も変わらなかった。


 フィンの手が私の頬に伸びかけて、途中で止まった。その手を掴んで、自分の頬に押し当てた。



 冷たかった。



「帰ったら、塔に」


「行くわ。連れて行く。だから――」



「大丈夫か」



 毎朝聞かれた言葉だった。七日間、一日も欠かさず。


 大魔女に大丈夫かと聞く人間は、世界にフィンだけだった。




「大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない。だから死ぬな」




 フィンが笑った。目尻に皺ができた。



 あれが最後だった。



 指の間から体温が消え、灰が積もった。二人の上に、音もなく。



 私より弱いくせに。私を守って死ぬなんて



 あの一帯は今も「リーラの灰野」と呼ばれている。



 五千年経っても草の生えない荒野。

お読みいただき、ありがとうございました。

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