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第26話 落ちた、上に

 天落ちの谷の逆重力地帯に、足を踏み入れた直後だった。



 隣で、悲鳴が上がった。



「いやっ、やだやだやだっ!」



 ミナの声だった。両手を振り回しながら螺旋を描いて上空へ吸い込まれていく。


 足が空を蹴っている。蹴る場所がない。本来なら地上があるはずの「上」へ、ミナの体が螺旋を描いて吸い込まれていく。


 逆重力に掴まれて、こちらから離れていく。



 ミナのスカートが逆さまに翻った。



「いやぁぁぁっっ見ないでぇっ! 見ないでぇっ!」



 ミナの絶叫が逆重力地帯に反響した。だがミナの体はこちらから離れていく。



「ミナさん!!」



 トールが盾の縁を岩棚に引っ掛けて身体を固定したまま、空いた手を伸ばした。届かない。


 指先がミナの靴底を掠めて、すり抜けた。



「ミナさん、ミナさんっ!!」



 声が裏返っていた。顔から血の気が引いている。


 ノクスの耳が動いた。唇だけで、声を殺した詠唱を紡いだ。


 ミナの周囲の空間が一瞬歪んで、体がふわりとこちらに浮いて、戻ってきた。



「触らないで! でも掴んでぇっ!」



 ミナの体が弧を描いて戻ってきた。自分の言葉に自分で混乱しているミナの腰を、トールの腕が抱き止めた。


 スカートがもう一度翻りかけて、トールの空いた手が、反射で、押さえた。



「バ、バカ、馬鹿トール」



「馬鹿でいいっす。ミナさんが生きてるっす」



 ミナがトールの胸に顔を埋めた。耳の先まで真っ赤だった。



「今のは、忘れて、お願いだから」



「何をっすか?」



「いい。なんでも無い」



 ミナが落ち着いたのを見て、息を吐いた。気が緩んだ、その一瞬だった。


 足元が、滑った。



 視界が、上下逆だった。頭が下を向いて、足が上を向いていた。


 雲は足の方。本来の空の方角に、白く渦を巻いていた。その雲が、近づいてくる。


 私が、空に向かって落ちている。風が、上向きの足の方から、頭の方へ吹き抜けた。


 髪が顔に張りつき、外套の裾が下から上へ巻き上がって視界を塞いだ。体が回転している。


 空と岩壁が入れ替わるたびに胃の底がひっくり返った。


 腰に、腕が回った感覚。腰を抱き上げる力強さと、反対側の腕が振り抜かれて何かに食い込む手応え。


 体が止まった。回転が止まって、カイルの胸当ての革の匂いが鼻先に当たった。視界を塞いでいた外套の裾が、ようやく顔から剥がれた。


 片腕が私の腰を抱きかかえ、もう片腕の剣が岩壁に深々と突き刺さっている。



「離さないからな」



 当たり前のように、言い切った。



「はい」



 声が上擦った。顔が熱い。重力が逆でも血は頬に集まるらしい。

お読みいただき、ありがとうございました。

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