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第25話 「無理に立たないでください。息が整うまで」

 翌朝、夜が明けきる前に、外で犬が一度だけ鳴いた。しばらくして、扉が控えめに叩かれた。



「お嬢様。男が一人、正門前に立っております。昨日ご一緒だった、剣士の方です」



 警備の使用人の声だった。


 外套を羽織って、薬草園に降りた。正門の前に、カイルが立っていた。


 目の下が薄く影になっていた。眠っていない。


 剣の柄の傷を、親指がゆっくり撫でていた。



「話がある」


「薬草園の奥なら、誰も来ません」



 二人で温室の脇まで歩いた。


 朝の空気が冷たくて、母の植えたセージの葉が露を結んでいた。



「カイル・エル・ヴァロー、と名乗っていましたよね」



 口に出した。カイルの手が、剣の柄の傷の上で止まった。


 三秒ほど、こちらを見つめた。



「気づいていたのか」


「気配が違うから。それに、昨日の帰り道。あなたを追っていた男がいました。屋根の上に。マントの留め金に、翼竜の紋」



 カイルの息が、一瞬止まった。



「ガーレンか。あいつ、見つかったか」


「ノクスの目が、いいので」



 カイルが額を押さえた。深い息が漏れた。


 剣の柄から指が離れた。



「ルグランド王国第二王子。カイル・エル・ルグランドだ」



 声は平坦だった。

 

 予想はしていた。でも王子殿下だったなんて。返す言葉が見つからなかった。


 カイルが息を吸って、少し置いてから話し始めた。


 一語ずつ、選ぶように。



「兄ヴァーン。三歳上の、俺の兄だ。一年前までは、剣を交えれば俺より強かった。冗談を言って笑った。父の前では真面目で、私室では本ばかり読んでいた」



 声が、低くなった。



「ある日から、笑わなくなった。それだけなら、政務に追われたんだろうと思った。だが、体が痩せていった。食事の席に出てこなくなり、廊下で会うたびに頬の肉が落ちていた。半年前、兄が父の御前会議で発言した時、声が違った。発音は同じだ。音の高さも。だが、抑揚の癖が、兄のものじゃなかった」



 剣の柄を撫でる指が、止まった。


 ――隣にいるのに、手が届かない。


 その感覚を、私は知っている。嫌というほど。



「俺はその夜、兄の部屋に行った。蝋燭の光で、兄の瞳の奥に赤い筋が一瞬だけ走った。瞬きの度に消えるが、確かに、ある」


「父も、同じだ。三ヶ月前から、目の奥に同じ赤」


「王家の術師に解呪を頼んだ。宮廷魔術師団の長も、他国から招いた高位魔法使いも、誰一人、解けなかった。術式の構造が分からないと言われた」



 息を吐いた。


 長く、震えていた。指の先が冷えた。


 この人は、たった一人で、これを抱えて走ってきたのか。



「あれは、ただ操られているのとは違う。人ではない何かが、内側に入っている。そう感じた。理屈じゃない。剣士の勘だ。だが、間違いない」


「俺は王宮を出た。出た日に、反逆の罪を着せられて、近衛に追われた」



 声が、また低くなった。



「俺は、あれを、『結社』と呼んでいる。王宮を出る直前、宰相が渡してくれた古代書にそに活動が示唆されていた」


「結社」



 その響きを、私は繰り返した。耳で確かめるように。



「お前、聞いたことが」


「いえ。初めて、聞きました」



 カイルが眉を寄せた。



「でも、昨日の祭壇は、その『結社』の仕業のはずです。古代の式が組み直されていた。組織立った人間が動いていなければ、無理な仕掛けです」



 カイルが顔を上げた。青みがかった灰色の瞳が、朝の薄明に淡く光っていた。



「リーラ、お前は何者だ」


「言えない」



 薬草園が静かになった。湿った土の匂いと、朝の鳥の声だけが、二人の間に残った。



「でも、敵は同じです」



 カイルが黙った。長い沈黙だった。


 剣の柄を撫でる指が止まって、離れた。



「それでいい。聞かない」


「はい」


「協力する」


「ありがとう。殿下」


 胸の奥で、何かが小さく解けた。

 安堵か、黙っていることの罪悪感か、自分でも分からなかった。



 カイルは、全部、出した。王子という身分。


 兄の侵食。父の赤い目。


 宰相の最期の言葉。古代書。


 私は、何も出さなかった。



 ――フィン。



 あの日も、こうだった。フィンが全部差し出して、私が黙っていた。


 正体を。力を。どれだけ長く生きてきたかを。



 フィンは何も知らないまま、私の前に立って、私の代わりに死んだ。



 あの顔が、カイルの横顔に重なった。



 この人も――私の正体を知らないまま、私のために前に出る。



 気分が悪くなって、膝に手をついた。



「リーラ」



 カイルの声が、近かった。顔を上げると、彼が一歩、こちらに踏み出していた。



 私が膝に手をついているのを、見ていた。



「大丈夫か」



 昨日、双頭の魔獣の前で初めて聞いた、あの低い声と同じだった。



「貧血です。少し待てば戻りますので」



 首を、ゆっくり横に振った。


 カイルが、左の膝を地面につけた。片膝を折って、もう片方の膝を立てる。


 剣士の屈み方じゃなかった。



「失礼する」



 短く、丁寧に断ってから、手のひらを私の背中に置いた。革の手袋越しでも、体温が伝わった。


 撫でるでもなく、押すでもなく、ただ、支える重さで置かれていた。



「無理に立たないでください。息が整うまで」



 ――ください。



 いつもの「お前」「歩け」「食え」じゃなかった。


 息を、もう一度、吸った。


 背中に置かれていたカイルの手の重みを、ゆっくり押し返すようにして、立ち上がった。膝が震えた。


 それでも、立った。背筋を伸ばした。


 カイルも遅れて立ち上がった。私が自分で立てたのを確かめてからだった。


 朝の光が、薬草園を金色に染め始めた。私の手だけが、まだ冷たかった。



「話してくれて、ありがとうございます。殿下」



 カイルが少し目を見開いた。すぐに視線を空に向けた。



「殿下はやめろ。俺はもう行く。お前も、休むんだ」


「わかった。カイル」



 カイルが、こちらに右手を差し出した。


 指先を曲げず、掌を上に向けた、丁寧な手の出し方だった。剣士のものじゃなかった。



「屋敷に入るまで、送る」



 短く、当たり前のように言った。


 ――その手を、断れなかった。


 指を、そっと重ねた。


 剣を握り続けた手の、硬い掌だった。それを、長い指がふわりと包んだ。


 強くもなく、弱くもなく、躓いても支えられる握り方だった。カイルの歩幅は、私のそれに合わせて狭まっていた。


 段差では、繋いだ手にほんの少し力を入れて、滑らないように支えた。無言の所作の一つ一つが、整いすぎていた。


 カイルは、自分が何をしているか、分かっていないように見えた。



 ――騎士だな、と、もう一度思った。



 屋敷の玄関の前に着いた。


 カイルが繋いだ手を、ゆっくり離した。



「中で、休め」


「あなたも、無理を、しないで」


「ああ」



 扉を開けて、中に入った。


 振り返ると、カイルが玄関の前で立っていた。私が中に入って扉が閉まるのを、見届けるつもりだった。



「あとで、ギルドで」


「遅れません」



 扉を、ゆっくり閉じた。


 最後の隙間から見えたのは、カイルが軽く頷いて、正門に向かって歩き始める背中だった。足取りが、昨日より少しだけ速かった。


 廊下の闇の中で、扉に背中を預けた。



「王子。あの人が、王子」



「どうしよう」



 別に何も変わらない。


 明日もギルドで会う。依頼を受けて、祭壇に潜って、報酬を分けて帰る。


 それだけのはずだ。


 でも、さっき片膝をついた時の所作が、ずっと頭に残っている。体に染みついた王族の礼法だった。


 そういうのを全部隠して、ギルドの掲示板の前に立っている人。



「なんか、ちょっと、困る」



 廊下の闇の中で、金色の目が光っていた。ノクスだった。


 何か言いたそうだったが、黙っていた。珍しく。


 階段を上がって自室に戻ると、ノクスは先回りしてベッドの端で丸まっていた。鈴が小さく鳴った。



「聞いたの」



 私が腰掛けると、ノクスが片目を開けた。



「ああ。窓越しに、全部な」


「王子だってな。面倒な男だ」



 ノクスが前足で顔を洗った。



「でも、悪い人じゃ、ないと思う」



 なんでこんな言い方になるのか自分でもわからない。


 私が小さく返すと、ノクスが前足を前に伸ばして、背中を弓なりに反らせた。長く息を吐いて、また丸まった。



「ふん」



 朝の光が窓辺に差し込み始めていた。薬草園の鳥の声が、もう一度、増えた。


 少しだけ目を閉じた。眠るほどではない。


 今日もまた、猫の手柄にする一日が始まる、その前の、ほんのひと時の休息。

お読みいただき、ありがとうございました。

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