第220話 「跪け」
セレスティアスの声が大聖堂を満たした。
「跪け」
灰色の光がこちらに押し寄せた。声そのものが力を持っていた。
人の心を導く力。八番目使徒の根幹。声で人を動かし、声で民を縛り、声で教皇国を支配してきた力が、大聖堂の廃墟に反響して体を包んだ。
心支配系の魔法だった。
前世で何百回も処理した。使徒級であろうと、大魔女の精神には届かない。
ノクスが肩の上で欠伸をした。
「俺には効かん」
「私にも」
二人が立ったまま、灰色の光の中で微動もしなかった。
セレスティアスの目が細まった。驚きはなかった。
予測の範囲だという顔だった。
「やはりか。九番目。伊達ではない」
大礼装の襟元を掴み、引き裂くように緩めた。金の刺繍が千切れて床に散った。
「ならば。出すしかあるまい」
砕いた石板の破片が床の上で光り始めた。石板に刻まれていたものが、空気中に溢れ出している。
魔法の文法そのもの。世界が魔法を認識する根源の構造式。
「この術式を知っているか、九番目」
セレスティアスの足元から白い光の円環が広がった。大聖堂の床全体に古代の文字が浮かび上がり、柱の根元を巻いて壁を這い上がっていく。
「原初の律。世界に魔法が生まれた瞬間の、最初の一行。私が前世で封印した。誰にも使わせぬよう。それを自分で掘り出した」
知っている。これは五千年前に見た。
世界を構成する魔法の第一層。
あの頃の私が「根源魔法の根源というべきもの」と呼んでいたもの。
魔法陣から白い柱が立ち上がった。光の柱が天蓋を突き破り、残っていたステンドグラスの枠を蒸発させた。
石柱が内側から砕けて崩れ、天井の石板が落下して床に激突した。空間そのものが軋む音が鳴った。
古代根源語で対抗術式を編んだ。白い光が両手から溢れて、光の柱に正面からぶつかった。
二つの光が壇上でぶつかり合い、空気が焼けた。
――根源魔法に根源魔法で対抗している。
相殺にしかならない。
向こうは地脈から供給が続いている。こちらは生身の魔力だけ。
ノクスの爪が肩に食い込んだ。
「おい! 押されてるぞ!」
「分かってるっ!」
光が弾けた。対抗術式が砕かれて、白い破片が顔の横を掠めた。
本体の光がまっすぐ胸を打った。
体が浮いた。
壁までの距離が一瞬で消えて、背中に衝撃が走った。
石壁が陥没し、破片が背中から散った。口の中に鉄の味が広がった。
「リーラ!」
ノクスの声が遠くで聞こえた。
衝撃で肩から飛ばされた子猫が、瓦礫の上に四本足で着地している。壁にめり込んだ体を引き剥がした。
膝が震えている。口元を袖で拭うと、赤い筋が白い布に残った。
体の奥で、古い何かが目を開けた。
視界が変わった。空気の中に漂う魔力の流れが色を帯びて見え始めた。
セレスティアスの魔法陣の構造が、文法の一行一行が読める。
世界の根幹を成す法則の骨格が、透明な文字になって空間に浮かんでいる。
視界の端で、銀の髪が黒く染まっていくのが見えた。
足元の瓦礫が微かに浮き上がり、髪が重力を無視して広がった。古代の詠唱が唇から溢れた。
声を抑える必要がなかった。
もう大聖堂には誰もいない。
セレスティアスの目が見開かれた。
「その詠唱。その魔力」
白い光を束ねた。両手から放った根源魔法がセレスティアスの魔法陣に激突し、大聖堂の中心で二つの光が拮抗した。
衝撃波が残っていた柱を根元から折り、天井の半分が崩落して空が見えた。互角だった。
だが、
魔法陣の供給が途切れない。こちらの魔力だけが削られていく。
体が保たない。前世の力を引き出しても、この体が耐えられない。
二度目の光がまともに入った。床に叩きつけられて、石畳の上を滑った。
起き上がろうとした膝が折れて、手のひらが瓦礫の角を掴んだ。
「おい。死ぬぞ」
ノクスが瓦礫の上を駆けてきて、目の前に座った。子猫サイズの体が灰まみれで、金色の目だけが暗闇の中で光っていた。
「まだ」
「まだじゃねえ。お前の体は十八歳の人間だ。前世のお前じゃない」
セレスティアスが歩いてきた。大礼装を脱いだ。
金の刺繍と深紅のマントが床に落ち、黒衣だけが残った。右の手の甲の刻印が灰色に脈打っている。
「私は神を最も愛した使徒だ。誰よりも信じ、誰よりも仕えた。その私が、捨てられた」
右の手の甲の刻印が、灰色に強く脈打った。
「だが、神の応えぬ祈りに、応えたものがいた。封じられた檻の、罅の向こうから」
「私は、この命をすべて差し出した。惜しむものなど、もう何もない」
セレスティアスが魔法陣に手を突き込んだ。根源魔法の光が腕を伝い、床を走り、壁を突き破って大地に沈んでいった。
地鳴りが始まった。最初は足裏だけだった。
次に膝が揺れ、壁が震え、崩れた天井の残骸がカタカタと音を立て始めた。
大聖堂の北の窓。残っていた枠だけの窓から、赤い光が差し込んだ。
聖都アルシスの北にある休火山が、根源魔法の地脈伝導で目を覚ましていた。噴煙が空を裂き、火砕流が山肌を下り始めている。
溶岩の赤い光が雲の底を染めて、昼の空が夕焼けの色に変わった。灰が降り始めた。
崩れた天井の穴から、細かい火山灰が舞い込んできて壇上を白く覆っていく。
「この聖都ごと灰に沈めよう。お前も、すべて」
灰色の瞳が、ふいに北の彼方を見た。
「この地脈は、どこまでも繋がっている。お前の帰る場所まで。お前が守ると言った、あの城まで」
「離れていても、奪えるのだ。お前が守ると言ったものから、順に」
不吉な響きだった。けれど今は、その意味を考えている余裕がなかった。目の前の隕石を止めなければ、聖都が消える。
立ち上がった。口の中の血を飲み込んで、足に力を入れた。
――止めなければ。
聖都が消える。
規模が大きすぎる。
地脈の力を丸ごと受け止めるなんて。
でも。
――前世もそうだった。
全部一人で背負い込んで、一人で処理して、誰もいない部屋で息を吐いた。ずっとそうするしかなかった。
――今回も、そうする。
覚悟が腹の底に落ちた。
全魔力を注ぐ。体が壊れても。
命が尽きても。それが私の仕事だ。
それが九番目の仕事だ。
古代根源語の詠唱を始めた。
体中の魔力が燃え上がった。黒い髪が逆立ち、紫の瞳の奥で金色の光が灯った。
大聖堂の扉が蹴り開けられた。
蝶番が外れて石畳に転がり、灰が舞い上がった。
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