第22話 街道の女幽霊
街道の脇に、フードの人影が立っていた。虫の音が、消えた。
そう感じた瞬間、背中の毛が逆立った。カイルの足音が、急に遠く聞こえた。
風が止まっていた。木立の枝も、街道の砂粒も、全部が一瞬、呼吸を忘れていた。
距離は、五歩。近づくにつれて、空気が重くなった。水の中を歩くような抵抗が、肌の表面を撫でた。
フードの下から、深紅の髪が一房、零れていた。血のような色だった。陽の光を吸って、燃えそうに見えた。
フードの裾が風に煽られた。
裾だけが内側から押されたように翻って、裏地に縫い込まれた金糸の紋様が一瞬だけ覗いた。
六芒星を二重円が囲む意匠。アルシェロンの古い神官紋。
すれ違いざま、女が立ち止まった。立ち止まる気配はなかった。視線も、こちらを向く所作もなかった。
カイルの足が、止まった。私を抱える腕に、力が入った。
「あなたの、魔力。懐かしい気配」
低く、澄んだ女の声だった。唇が動いたかどうか、見えなかった。フードの奥は影で、目も口も判別できなかった。
それでも、声だけは私の耳元で囁かれたように届いた。距離は五歩、保ったままで。
「どなた、ですか」
声が、掠れた。
「あなた」
女の声が、続いた。
「祭壇の奥の壁に、古い術式が残っておりました」
――え。
息が、止まった。
「あの術式の主を、私は探していたのでございます」
あの詠唱だ。儀式の間で、ノクスの加護を装って声を殺して紡いだ古い言語。
痕跡が、壁に残っていた。それを辿ってきた者が、いた。
「懐かしい響きでした。今の時代に、あれを使える方がいらっしゃるなんて」
女の声には、敵意も善意もなかった。職人が探していた素材を見つけた時の、ただの確認の声だった。
呼吸が、止まった。
フードの奥が、こちらを向いた。目は見えなかった。それでも、視線がまっすぐ自分に向けられているのが分かった。
返す言葉が、出なかった。
女が、フードを浅く下げ直した。深紅の髪が一房、再び影に呑まれた。
「今日は、それだけ確かめに参りました」
「また、お目にかかりましょう」
「九番さん」
それだけ言って、女は街道の縁を歩き始めた。普通の歩幅で。ゆっくりと。
三歩、五歩。振り返った時には、街道のどこにも姿はなかった。
虫の音が、戻ってきた。風が、頬を撫でた。呼吸を、思い出した。
「リーラ」
カイルの声が、低かった。腕の中の私を見下ろしていた。
「今の女、何だ」
「分かりません」
「お前、応えていただろう。何を言われた」
「『綺麗な髪ね』と」
「それだけか」
「それだけです」
嘘だった。
カイルの目が、私の顔にしばらく留まった。何かを察したようでも、追及しないと決めたようでもあった。視線を前に戻して、歩幅を上げた。
トールが青い顔で振り返り、振り返り、街道の後ろを確かめていた。
「消えた、完全に消えたっす」
「五歩っすよ五歩! 目の前っす! 消えたっす! あれ絶対、幽霊っす!」
「街道の女幽霊っす! 俺、おばあちゃんから聞いたことあるっす! 深紅の髪の」
「リーラさん大丈夫っすか!? 憑かれてないっすか!? 目、見えるっすか!?」
トールは一人で叫び、一人で答え、一人で結論を出していた。両手で盾を抱きしめて、街道の後ろを見ないように下を向いたまま、しかし口だけは止まらなかった。
カイルが額を押さえて、私の頭の上で深く息を吐いた。
「あの坊主、ギルドに戻ったら全員に喋るぞ」
「でしょうね」
「止めるか」
「いえ。幽霊話のほうが、まだ平和です」
カイルの腕の力が、わずかに緩んだ。短く笑った気配がした。
私だけに届く声で、ノクスが言った。
「――俺が、あの女に気付けなかった」
ノクスの声が、震えていた。
「五歩だぞ。真横に立たれて、俺が、何も感じなかった。あり得ん」
怒りなのか、畏れなのか、判別できなかった。
「フードの裏地に六芒星の古紋があった。アルシェロンの神官紋だ、ただし、五千年前の様式の」
「うん。一瞬だけ、見えた」
カイルの胸に額を伏せて、表情を隠した。
「今のアルシェロンにあの紋を纏う者は、いないはずだ」
私が額を伏せたのに気付いたのか、カイルが私を抱える腕の力が、ほんの少し強くなった。歩幅が速くなった。
誰も追ってはこなかった。それでも背中に、誰かの視線が貼り付いて離れなかった。
――九番。
あの女は、そう呼んだ。
心臓が縮んだ。指先が冷たくなって、カイルの服を握る力だけが勝手に強くなった。
知られている。私が九番目だと。この契約のことを。
知られたら、記憶が消される。
私の記憶ではない。周りの人間の記憶だけではない。カイルの。ノエルの。父さんと母さんの。十八年かけて積み上げた全部が、なかったことになる。
呼吸が浅くなった。カイルの胸に顔を押しつけたまま、震えが止まらなかった。
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