第218話 十日目の素顔
顎を掴む指が、骨ごと砕くかと思うほど強かった。爺さんの目があたいの瞳を覗き込んでいる。
――ああ、気づいたね。
十日間、よく保った方だ。指が離れた。
顎に爪の半月が四つ、熱を持って残った。
「バレちまったかい、お爺さん」
犬歯を見せて笑ってやった。
あたいの声で。
あたいの笑い方で。
十日間ずっと作っていたリーラの顔を、やっと脱ぎ捨てた。銀に染めた髪の根元から金が覗いている。
リーラの煎じた紫の瞳薬は十日が限界だった。どのみち、もう保たなかった。
セレスティアスが一歩退いた。マヌエルに振り返った。
「マヌエル」
マヌエルが膝をついたまま顔を上げた。白い手袋の中で指が握り込まれ、仮面の下の口元から血の気が消えていた。
「何かの間違いかと」
「十年仕えた娘の顔も分からなかったのか」
マヌエルの体が揺れた。言葉が出なかった。
懐中時計の鎖が、微かに鳴った。
だが、術式は止まらなかった。
灰色の光が床を這って、あたいの足を伝い、体の中に入ってきた。
熱かった。
体の内側が燃えるように熱い。
皮膚の下を灰色の光が走って、骨が軋む音が聞こえた。
「止められないのかい」
「止まらぬ。地脈と繋がった術式は、一度起動すれば力が尽きるまで止めることはできん」
セレスティアスの声に焦りはなかった。
ただ、あたいを見る目が、少しだけ変わっていた。
「止められぬなら、お前を焼いて力を使い切る。――無駄死にではないぞ。術式の実験に使ってやる」
壇上の石畳が割れた。亀裂から灰色の光が噴き上がり、大聖堂の柱を舐めて天蓋まで届いた。
床が陥没して、地下から光る線がびっしり浮き出した。一本一本が脈打つように明滅して、地鳴りが腹の底を揺さぶった。
光があたいに向かって押し寄せてきた。鎖が光に引かれて持ち上がり、体ごと宙に浮いた。
体の芯が焼ける。肌の下を光が走って、視界が白く潰れかけた。
――いいさ。
爺さんの企みは空振りした。あたいの体ひとつで、全部ぶち壊してやった。
上等だ。
天蓋に昇った灰色の光が反転した。大聖堂の天井から滝のように降り注いで、あたいの頭上に集まった。
逃げ場なんかなかった。鎖で繋がれた体に、空の全部が落ちてくるみたいだった。
目を閉じてその時を待った―――
壇上の端から飛び出した深紅の髪が、あたいの前に立った。両手を広げて、深紅の結界を展開した。
灰色の光が結界の壁にぶつかって散った。
「ロウェナさん!」
ヴィオラの声だった。灰まみれの神官服の裾を翻して、杖を床に叩きつけている。
結界が灰色の光を押し返していた。
だが、押し返しきれていなかった。
地脈の力が結界の隙間から漏れ出して、ヴィオラの腕を焦がしている。杖が悲鳴のような音を立てていた。
「リーラ! 早く!」
壇上の床が砕けた。石畳が内側から弾け飛び、白い光が地下から噴き出した。
石の破片が宙を舞い、光の中から二つの影が立ち上がった。銀の髪が光を受けて白く輝いていた。
紫の瞳が壇上を見据え、肩の上で子猫サイズの黒猫が金色の目を開いている。
「ロウェナ、ヴィオラ。遅くなった」
肩の上の黒猫が金色の目を細めた。古い言語が小さな口から零れた。
鎖に刻まれた封印の紋様が光って消え、魔力の供給を失った鎖が粉になった。体が崩れ落ちて、膝が石畳にぶつかった。
「遅いのさ」
犬歯を剥いて笑った。笑うしかなかった。
体の内側がまだ熱くて、立っていられなかった。ヴィオラの結界が軋んでいた。
杖の先端に亀裂が走り、汗が額から顎に落ちている。両手で杖を支えるのがやっとで、あたいを抱える余裕なんかなかった。
「ロウェナ、結界が持つうちに逃げて」
ヴィオラの声が掠れていた。
「冗談じゃない。あたいも」
立ち上がろうとした。脚に、力が入らなかった。
周りを見た。
武器はない。
魔法も使えない。
使えるのは、鎖の残骸と、砕けた石畳と、あたいの拳だけだった。
「ロウェナ」
リーラがあたいの目を見た。
「充分だよ。ロウェナがいなかったら、セレスティアスを引きずり出すことはできなかった」
「でも」
「私たちも帰る。信じて」
リーラの肩からノクスが跳び降りた。床の光る線に前足を叩きつけると、線が一本消えた。
もう一本。小さな体が床を駆けまわって、光る線を次々に潰していく。
光が弱くなった。天蓋から降り注いでいた灰色の滝が細くなり、途切れ、消えた。
大聖堂を揺さぶっていた地鳴りが遠ざかっていく。
――止まった。
ヴィオラが結界を解いた。杖を床につき、膝が一瞬折れかけたが、すぐに体を起こした。
あたいの傍に来て、背を向けてしゃがんだ。
「ロウェナさん。――おぶさってくださいな」
「あたいは」
「お願いいたします」
ヴィオラの背中は細かった。
神官服の下の肩甲骨が浮いている。
こんな細い体で結界を支えていたのか。
あたいの出番は終わったんだ。ヴィオラの背に体を預けた。
ヴィオラが立ち上がった。あたいの重さに一瞬よろけたが、杖を支えにして歩き始めた。
壇上を降りた。振り返んなかった。
振り返ったら、あたいのことだ、馬鹿やる。
正面扉が閉まった。
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