第217話 数千の顔
誘拐から十日が過ぎていた。アルシェロン教皇国の教皇、セレスティアス・ヴァロウンは、聖都アルシスの大聖堂の壇上から眼下を見下ろしていた。
大聖堂の身廊を埋め尽くす数千の顔。蝋燭の灯りが石柱の影を揺らし、ステンドグラスの聖人たちが午後の光を浴びて赤と青の斑を床に落としている。
来賓席の最前列に、ルグランドの紋章を胸につけた二人の姿があった。宰相シャルロット・ド・ラヴェルンと、ルーシェ・エーデルフェルト。
新王カイルの婚約通知を携えた外交使節として、三日前に聖都アルシスに到着していた。婚約通知の受理は昨日済ませた。
今日のレセプションは、その返礼として使節団を招いた。という名目だった。
この者たちのために祈った。神は一度も応えなかった。ならば自分が応えるしかない。
右の手の甲が疼いた。九使徒の刻印。石板のペンダントに指が触れると、積み上げてきた全てが指先に凝縮された。
今日、終わる。
「民よ」
声が大聖堂の天蓋に昇り、石壁を伝って身廊の隅々まで染み渡った。信徒たちの囁きが潮のように引いていく。
「今日はルグランド国の婚約の祝いに集まってもらった。だが、もう一つ、告げることがある」
右手を掲げた。壇上の裏手から鎖の音が響き、二人の聖騎士に挟まれた女が引き出された。
銀に近い髪、紫の瞳。肩には黒い猫。捕縛時の縄は、いつの間にか魔力封じの鎖に替えられていた。
鎖が床を擦る音が、身廊の静寂を割った。
マヌエルが壇上の端に控えていた。白い手袋の指先を膝の上で揃え、仕事を終えた執事の顔で静かに佇んでいる。
「皆さん」
声を信徒たちに向けた。穏やかに。いつもそうしてきたように。
「この国を、この世界を、五千年にわたって縛ってきた『九番目の使徒』を、我らは捕らえた」
ざわめきが波紋のように広がった。
「九番目?」「使徒が実在する?」。声が重なり、混ざり、壁に当たって返ってくる。
来賓席でルグランド王国宰相シャルロット・ド・ラヴェルンの目が鋭くなったのを、視界の端で捉えた。
「五千年前、九番目の使徒が世界を焼いた。聖典にも記されている。大地は割れ、海は煮え、世界は灰に埋もれた。あれ以来、神の恩寵は途絶えた。祈りは届かなくなった。飢饉も、疫病も、戦も、全ては九番目が世界に残した傷です」
「今日、この壇上で、使徒殺しの儀を執り行います。九番目の力を取り戻し、皆さんに、本物の救いを届ける」
信徒たちの顔が見えた。困惑。畏怖。理解の追いつかない目。
それでいい。理解は後からついてくる。救いとは、いつもそういうものだ。
「私が、ついに神になるのだ」と、唇だけが動いた。信徒には届かない声だった。
石板のペンダントを握りしめた。五十年前、初めて教皇冠を戴いた朝の祈りを覚えている。あの朝から今日まで、一日も欠かさず祈った。返事は、一度もなかった。
――やっと、終わる。
石板のペンダントを両手で掲げた。古代根源語の詠唱が唇から流れ出した。言葉の一つ一つが大聖堂の天蓋に昇り、石柱を伝い、ステンドグラスを震わせた。
大聖堂の床が震えた。石畳の隙間から灰色の光が滲み出し、大聖堂の地下全体が脈打つように明滅した。
地脈だ。大聖堂の地下に敷設した術式回路が、地脈と接続して起動していた。九番目の使徒を殺すために設計された術式。一国の地脈を丸ごと吸い上げて、一点に集束させる。
蝋燭の炎が一斉に消えた。石柱の表面に亀裂が走り、柱の一本が根元から割れた。破片が身廊の床に散った。
地震が大聖堂を揺さぶった。天井から石片が降り注ぎ、ステンドグラスが砕けて色硝子の破片が光の雨になって降った。
信徒たちの悲鳴が上がった。教皇国の近衛兵が信徒たちの間に割って入り、出口に向かって声を張り上げた。
「避難しろ! 全員外へ!」
来賓席でシャルロットが立ち上がった。灰色のドレスに硝子の破片が散っている。近衛兵がシャルロットとルーシェの腕を掴み、脇の通路に向かって押し出した。
「離しなさい! まだ」
「身の安全が最優先です!」
シャルロットが振り返った。壇上のセレスティアスを見た。宰相の目が何かを読み取ろうとしていた。
だが近衛兵に押されて、通路の闇に消えていった。
信徒たちが出口に殺到した。子供の泣き声が天蓋に反響し、足音が石畳を叩き、祈りの声と悲鳴が混ざって壁に当たって返ってくる。
大聖堂が空になっていく。もう止められない。地脈と繋がった術式は、一度起動すれば力が尽きるまで走り続ける。術式回路が最終段階に移行していた。
あとは、九番目の使徒に、力の標的を接続するだけだ。
セレスティアスが最後の詠唱を紡いだ。標的接続の術式。九番目の使徒の魔力核に地脈の力を流し込み、内側から焼き尽くす。
灰色の光が鎖に繋がれた女の体に向かって収束していく。
繋がらなかった。
力の流れが女の体を素通りした。地脈の力は標的を求めて壇上を漂い、行き場を失って石畳を焦がしている。
接続すべき魔力核が、ない。
「何故だ」
セレスティアスの手が下がった。石板のペンダントが胸の前で揺れている。
昨日の夕刻、マヌエルの報告を受けて自ら確認した。
鎖に繋がれた女の体から、九番目の使徒の残滓を感知した。はずだった。
もう一度、標的接続の詠唱を紡いだ。
灰色の光が女の体に触れて、また散った。
魔力核がない。九番目の使徒の力が、一片もない。
まさか。
セレスティアスが壇上を横切った。鎖に繋がれた女の前に立ち、顎を掴んだ。指の力が強かった。顎の骨が軋む。
灰色の光だけが照らす大聖堂の中で、女の瞳を覗き込んだ。昨日は紫だった。確かに紫だった。
今、瞳の奥に、赤が滲み出していた。
「赤い瞳だ」
「紫ではない。お前は、九番目ではない」




