第215話 「リーラがいない」
カイルが、庭園に駆けつけた時には遅かった。城館の側面から庭園に飛び出した瞬間、目に入ったのは芝の上に散らばった戦闘の痕跡だった。
薔薇の垣根が三箇所で折れて、噴水の縁石が砕けている。
芝に靴跡が扇状に残っていて、その中心にリーラはいなかった。
連れ去られた場所だった。靴跡だけが残って、本人は消えている。
焔鱗の剣を握ったまま、足が止まった。
「遅い」
声が、喉から漏れた。
庭園の東側で、金属がぶつかる音がまだ続いていた。走った。
薔薇の垣根を飛び越えて、東屋の柱を掴んで方向を変えた。城壁の東側の広場に出ると、六つの黒い影が散開していた。
黒衣の男たち。結社の刺客だ。
トールが先に到達していた。三対六。
こいつらの動きは速かった。正面からの斬り合いを避けて、距離を取って時間を稼ぐ動きをしている。
それでも、一秒ごとにリーラが遠くなる。
「邪魔っす!」
トールが踏み込んだ。盾を構えたまま前に出て、全体重を乗せた盾撃が正面の一人を吹き飛ばした。
男の体が芝の上を転がって、薔薇の垣根に突っ込んで動かなくなった。
カイルが焔鱗の剣を抜いた。
黒鱗を鋳込んだ刃が月光を吸い込んで紫に光った。二人目の刀身を弾いて、男の剣が砕けた。返す刃で肩口から斬り伏せた。
ミナが側面から走り込んで、三人目の腕を短剣で裂いた。男が膝をついたところに、トールの盾が横から叩き込まれて城壁に叩きつけられた。
残り三名。
「どけ」
低い声だった。
殺気ではなく、焦りだった。
マヌエルは闇の向こうに消えていく。
一人が煙幕を投げた。白い煙が庭園に広がって、月光が遮られた。
カイルが煙の中を走った。焔鱗の剣の切っ先で空気を裂きながら、気配を追う。
煙の中で足音が散って、左右から刃が飛んできた。体を捻って一本を弾いた。もう一本が外套の裾を裂いた。
「カイルさん! 右っす!」
トールの声が煙の向こうから届いた。
右に盾が割り込んで、三本目の刃を受け止めた。
煙が晴れた時、残りの刺客は城壁の上に登っていた。カイルが追おうとして、足が止まった。
城壁の向こう。北の闇の中に、白い点が見えた。
仮面だった。マヌエルの白い陶器の仮面が、月光の下で一瞬だけ振り返って、消えた。
追えなかった。
殿の精鋭を制圧するのに時間を取られすぎた。
あの距離を、あの速度で、もう追いつけない。
焔鱗の剣を握る手が白くなっていた。刃先が微かに震えている。
トールが盾を下ろして、膝に手を着いた。荒い呼吸が白く吐かれている。
革紐の食い込んだ手首から血が芝に滴って、黒い染みを作った。
ミナがトールの隣に立っていた。
短剣を鞘に戻して、トールの手首を見下ろしている。何か言いかけて、唇を引き結んだ。
庭園に転がった刺客の体が三つ。残りの三名は城壁の向こうに消えた。
カイルは城壁を見上げた。
月が雲に隠れた。
庭園が暗くなった。
「追わなくていいんすか」
トールの声が、背後から聞こえた。
走りたかった。城壁を越えて、闇の中を走って、マヌエルの仮面を叩き割ってやりたかった。
拳が動いて、城壁を叩いた。石壁にひびが入った。指の関節から血が滲んで、石の表面を赤く染めた。
足音が聞こえた。城館の方からだった。
ガーレンだった。左腕の包帯が解けかけていた。走ったらしい。
それでも息を乱さず、庭園の戦闘痕を一瞥して状況を把握した。倒れた刺客の懐を探り始めた。
革表紙の書簡が出てきた。封蝋が割れている。結社の紋章。朝食の席で見たものと同じ形式だった。
「同じ指令の写しだ。実行部隊にも回っていたか。『娘と黒猫の両方を確保せよ。婚約の式典の前に』。やはり教祖直々だな」
ガーレンがカイルに書簡を渡した。
「深追いはするな。マヌエルが撤退路に罠を仕掛けている可能性がある」
ガーレンの声は低く、平坦だった。
トールとミナの方を向いた。
「トール、ミナ。近衛兵を集めて追撃隊を編成しろ。北の街道を封鎖してマヌエルの足を止めろ」
トールが頷いて、ミナと共に城館の方へ走った。
ガーレンがスキットルの蓋に触れた。
弾かなかった。
「今夜は休め」
「休めるわけが」
「その手じゃ剣も握れんぞ」
カイルは答えなかった。
ガーレンが踵を返して、城館の方へ歩いていった。
一人になった。
リーラは今頃、どうしているのだろう。
怖い思いをしていないだろうか。
――無事でいてくれ。
焔鱗の剣の柄に触れた。ロンド師匠がつけた傷が、掌に食い込んだ。
部屋に戻った。
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