第214話 北の街道
城壁を越えた一団が、闇の中を北へ進んでいた。二名がノクスの入った布包みを運び、残りが周囲を固めている。黒い影が地に長く伸びて、月が雲に隠れた瞬間に見えなくなった。
マヌエルはお嬢様の手を引いたまま、歩調を崩さず歩いていた。白い革手袋がお嬢様の手首を包んでいる。指に力は入れていない。逃がすつもりもない。
「お寒うございませんか、お嬢様」
お嬢様は答えなかった。
「そうでございますか。北の街道は夜風が冷えますのでねぇ。お着きになりましたら、温かいお茶をお入れいたします」
街道の分岐点で、マヌエルは足を止めた。
北の三叉路。合流地点だ。殿の六名はまだ来ていない。
懐中時計を開いて秒針を確認し、閉じた。
「あと十四分。殿が間に合わなければ、先に参りましょう」
前衛の一人が闇の中に目を凝らしていた。
南の方角。城壁のある方角から、微かに金属の音が運ばれてくる。
「足止めは成功しているようでございますねぇ」
マヌエルの声に安堵はなかった。
殿が戻るかどうかは、最初から計算に入れていない。
必要なのはお嬢様と猫の確保だけだ。
殿が全滅しても、任務は完了している。
三叉路の木立の奥に、幌付きの馬車が待っていた。
御者が手綱を握ったまま頭を下げた。マヌエルが事前に手配していた脱出用の馬車だった。
マヌエルはお嬢様の手を取ったまま、馬車の踏み台に導いた。
「お足元にお気をつけくださいませ」
お嬢様を幌の中に座らせて、毛布を膝にかけた。夜風が冷える。執事の手つきだった。
十二分後、殿の三名が走ってきた。
残り三名は来なかった。
「殿三名を失いました。新王の剣士と、盾の男と、短剣の女が」
マヌエルの肩が落ちた。仮面の下で、口元の笑みが消えた。
「ご家族には、私が直接お伝えいたします」
マヌエルは馬車に乗り込んだ。
御者が手綱を鳴らして、馬車が北へ走り始めた。車輪が石畳から土の街道に変わって、揺れが柔らかくなった。幌の隙間から月が覗いて、お嬢様の銀色の髪が青く光った。
――お嬢様。
あなた様が三歳の時、廊下で転んで膝を擦りむかれた日のことを、私は覚えております。
ヴィクター様がいらっしゃる前に、私が膝を拭いて、ガーゼを巻きました。
お嬢様は泣きませんでした。
あなた様が五歳の時、初めてお客様の前でお辞儀をされた日のことも。背筋が曲がっていらっしゃいましたので、私が後ろからそっと背中に手を添えました。
あなた様が七歳の時、真夜中に泣いていらっしゃった日のことも。何があったのかは聞きませんでした。温かい牛乳を一杯、お持ちしただけでございます。
あなた様が八歳の時、私はヴェイン家を去りました。
理由はお嬢様には、まだ申し上げられません。
「お嬢様」
マヌエルの声が、少しだけ変わった。
「教皇猊下のもとへ参ります。ご安心くださいませ。私が、最後までお側におりますから」
お嬢様は目を閉じていた。マヌエルは懐中時計を閉じた。
北の街道に、仮面の白さだけが浮かんで、やがて闇に溶けた。
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