第213話 「お久しぶりでございますねぇ」
マヌエルが城壁を越えた。音はなかった。
仕込み杖を地面に突いて体を引き上げ、壁の上で一度だけ止まった。眼下の庭園。月光。薔薇の垣根。噴水の音。
――お嬢様。
長い間お待たせいたしました。
マヌエルが城壁の内側に降りた。着地の音は、噴水の水音にかき消された。
前衛六名が続いた。黒い影が庭園の芝の上を滑るように展開していく。扇状に広がり、城館から庭園に出る通路を囲む位置に着く。
マヌエルは薔薇の垣根の陰に立った。
白い仮面が月光を弾いて、闇の中で浮かんでいた。
庭園の奥。城館の側面から、足音が聞こえた。銀色の髪が、月光の下に出てきた。
夕刻と同じ姿だった。銀に近い髪。肩に黒い影。小さな黒猫。後ろを歩く兎耳の侍女。
夜の散歩だろうか。城館の灯りが背後に落ちて、銀髪の女の輪郭が影絵のように浮かんでいた。
マヌエルの心臓が、二十年ぶりに速くなった。懐中時計を開いた。
ぱちん。合図だった。
前衛六名が同時に動いた。芝を蹴る音が六つ重なって、銀髪の女を囲むように扇状に展開した。三名が正面を塞ぎ、三名が側面から回り込む。
退路はない。
兎耳の侍女が叫んだ。
「リーラお嬢様!」
声が庭園に響いて、噴水の水音を裂いた。侍女が銀髪の女の前に立ち塞がろうとして、前衛の一人に腕を掴まれた。
白い兎耳が激しく揺れている。
「離して! お嬢様に触らないで!」
前衛がもう一人動いて、侍女を押さえ込んだ。兎耳の先端が恐怖で伏せられて、震える声が夜の庭園に散った。
マヌエルは薔薇の垣根の陰から出た。仕込み杖を地面に突き、銀髪の女の前に歩み出た。靴音は立てなかった。
月光が仮面の白さを浮かび上がらせて、黒いフードの縁が顔の上半分に影を落としている。
銀髪の女が、マヌエルを見上げた。紫の瞳。間違いなかった。ヴェイン家の血統が持つ紫。母エレインから受け継いだ瞳の色。
マヌエルは仕込み杖を左手に持ったまま、右手を胸に当てて一礼した。
完璧な執事の礼だった。膝は曲げず、上体だけを傾けて、視線を一度落としてから戻す。繰り返してきた動作が、戦場の庭園で寸分の狂いなく再現された。
「ねぇ、お嬢様」
声は穏やかで、艶があった。
「お久しぶりでございますねぇ」
お嬢様は動かなかった。
紫の瞳がマヌエルの仮面を見据えている。マヌエルが一歩近づいた。
仕込み杖の石突きが芝を押して、微かな音を立てた。
「大きくおなりでしたねぇ」
仮面の下の口元が柔らかくなった。目元は陶器に隠されている。
だが口元だけで、慈しみに似た何かが滲んでいた。
肩の上の黒猫が毛を逆立てた。金色の目がマヌエルを射抜くように開いて、小さな体が弓なりに硬直した。
「おや。ノクス様もご一緒でございますか」
マヌエルの視線が黒猫に移った。仮面の奥で、口元の笑みが深くなった。
「お嬢様の忠実なるお供ですねぇ。――いいえ。お供ではございませんか。お嬢様を守る力の根源。あの魔法を操る、本当の力の持ち主」
黒猫の耳が完全に伏せられた。
「教皇猊下は仰いました。両方確保せよ、と。ですがねぇ――ノクス様。あなた様をお先にお預かりした方が、お嬢様のお手間が省けるのではないかと、私は考えておるのでございます」
マヌエルが白い革手袋の右手を、ゆっくりと持ち上げた。
「失礼」
指先がお嬢様の顎に触れた。
白い手袋の革が、肌の上を滑った。震えも迷いもない手で、顔を上向かせる。
月光が紫の瞳に落ちた。マヌエルは仮面の奥から、その瞳を覗き込んだ。
「お嬢様の三歳のお誕生日、ヴィクター様がお買いになった木馬、まだお屋根裏にございますかねぇ」
お嬢様は答えなかった。
唇を引き結んで、目を逸らした。マヌエルの指が顎から離れた。白い手袋が月光の中で一瞬浮いて、仕込み杖の握りに戻った。
「ふふ、嬉しゅうございます」
沈黙を答えとして受け取った声だった。覚えていてくださった。その沈黙が、何よりの証拠だった。
前衛の一人が黒猫に手を伸ばした。黒猫が身を翻して肩から飛び降りようとした瞬間、もう一人の前衛が布を被せた。
視界を塞がれた黒猫が暴れて爪が布を裂いたが、その隙に三人目が魔力封じの縄を巻きつけた。金色の目が布の隙間から覗いて、怒りに燃えていた。
「ノクス様、お静かに。傷つけるつもりはございませんよ」
マヌエルが声をかけた。黒猫の体が布の中で一度暴れて、止まった。
縄を巻く前に、前衛の一人が水晶球を翳していた。球面が紫に発光した。
「間違いありません。高位の魔力反応です」
マヌエルが頷いた。懐中時計の蓋を閉じた。
「お時間でございます。参りましょう、お嬢様」
白い革手袋が、お嬢様の手を取った。
恭しく、けれど有無を言わせない力で。
お嬢様の手は冷たかった。震えてはいなかった。引き結ばれた唇と、逸らされた視線。抵抗の形ではない。もっと深い何かを堪えている表情だった。
マヌエルはその手を導くように歩き始めた。庭園の芝を踏んで、薔薇の垣根を抜けて、城壁の方角へ。
「お足元にお気をつけくださいませ。夜露で滑りやすうございますから」
執事の声だった。客を案内する声だった。二十年間、邸の廊下で幼いお嬢様の手を引いて歩いた時の声と、同じ声だった。
後衛の六名が殿を固めた。城館の東側から、金属がぶつかる音が響き始めた。迎撃が始まったらしい。
マヌエルは振り返らなかった。殿の仕事は殿に任せる。自分の仕事は、お嬢様をお連れすること。それだけだ。
城壁を越える時、マヌエルは前衛の二人にお嬢様を先に引き上げさせた。
自身は仕込み杖を壁に突いて最後に登り、城壁の上でお嬢様の手を取り直した。一度だけ、眼下の城館を振り返った。
庭園の東側で戦闘の音が大きくなっていた。剣と盾がぶつかる轟音。誰かが叫んでいる。松明の光が走り、影が交錯していた。
マヌエルは城壁の外側に降りた。
お嬢様を地面に立たせて、手を離さないまま闇の中を北へ歩き始めた。背後の城壁から、声が響いた。
若い声だった。
怒りと、何か別のものが混じった声が、夜の空気を裂いて届いた。
マヌエルは振り返らず、闇の中から、声だけを残した。
「お坊ちゃま。お嬢様は、お預かりいたしますねぇ」
仮面の下で口元が笑んだ。
声は穏やかで、嫌味で、少しだけ、寂しかった。
お嬢様の婚約者に対する、最後の挨拶だった。
銀の懐中時計がぱちん。
任務完了。
教皇猊下に、お届けする。
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