第212話 「永遠の奉仕を」
マヌエルは、聖都アルシスの鐘楼の下で銀の懐中時計を開いた。ぱちん。
蓋の内側に刻まれた文字。
「永遠の奉仕を」
ヴェイン家に仕えた二十年間、毎朝この蓋を開いて時間を確認した。
邸の廊下を歩く靴音、銀食器を並べる手順、お嬢様の寝室の扉を叩く間合い。全てがこの秒針に刻まれていた。
秒針が動いている。止まらない。止めたくもない。
教皇猊下の指令は明確だった。
「娘と黒猫の両方を確保せよ。婚約の式典の前に。猶予はない」
白い陶器の仮面。目元から鼻筋までを覆い、口元だけが見える。その口元が、笑みの形を取った。
「猶予はない、でございますか」
誰に言うでもなく、呟いた。
声は鐘楼の石壁に吸い込まれて消えた。笑みが深くなった。
猶予がないのは、こちらも承知している。黒猫。あの古代詠唱を操る化け物。
冒険者ギルドのS級登録、魔法猫ノクス様。
あの猫が全ての魔法の根源だと、マヌエルは確信していた。お嬢様は優秀な医者見習いだが、あの規模の魔法を操れる人間ではない。力の本体は、猫の方だ。
教皇猊下は「両方確保せよ」と仰った。
だが猫を先に押さえれば、お嬢様の抵抗力は無に等しい。順番は自明だった。
「お嬢様、お迎えに参りましょう」
白い革手袋を嵌め直した。一度も外したことはない。ヴェイン家の食器を磨く時も、お嬢様を抱き上げる時も、常に手袋越しだった。
黒の長衣の裾が廊下の石畳を擦った。フードの縁が仮面の上端に影を落として、鐘楼の狭い螺旋階段を降りていく。
靴音は立てない。執事の足運びだった。
階段を降りきると、中庭に部下が待っていた。精鋭十二名。暗殺術と隠密行動の専門家。全員が膝をついている。
「立ちなさい」
声は穏やかだった。命令の形をしていない。
だが十二人が同時に立ち上がった。仕込み杖を左手に取った。銀細工の握りが掌に馴染む。杖の内部に仕込まれた細い刃は、ヴェイン家の食卓のナイフよりも薄い。
「南へ参ります。ルグランド王国、王都ルグランディア。新王の城に」
十二の顔が仮面の方を向いた。
「お嬢様を、お連れするのでございます」
懐中時計の蓋を指で撫でた。秒針が刻む音が中庭の石壁に反響していた。
お嬢様。あの小さな手。
ヴィクター様がお嬢様の三歳のお誕生日に木馬を買って帰られた日のことを、マヌエルは正確に覚えていた。
侯爵が馬車から降りる前に、使用人の裏口から先回りして玄関の扉を開けた。ヴィクター様が木馬を両手で抱えて、お嬢様の部屋まで運んだ。マヌエルは廊下の角で控えていた。
「マヌエルおじちゃん、見て! おうまさん!」
あの声が、まだ耳の底に残っている。走って廊下を往復するお嬢様の後ろを、木馬がごとごとと引きずられていく音。靴下の足が石畳を叩く音。笑い声。
「マヌエルおじちゃんも乗る?」
「私には少々小そうございますねぇ」
あの日、お嬢様は木馬に跨がったまま眠ってしまった。マヌエルが毛布をかけて、木馬ごと寝室に運んだ。
――大きくおなりでしたねぇ、お嬢様。
仮面の下の口元が、微かに笑んだ。それが慈愛なのか執着なのか、本人にさえ区別がついていない。
「出発」
十二名が一斉に動いた。中庭の影が伸びて、聖都アルシスの石壁の向こうに消えていく。南へ。
懐中時計の蓋を閉じた。
秒針は止まらない。仮面の白さだけが、月光の下で最後まで見えていた。
街道を南下する行軍は、音を立てなかった。十二名の精鋭は街道の端を一列に歩き、靴底に塗った獣脂が足音を消していた。
マヌエルは列の中央を歩いている。仕込み杖を左手に、右手は懐中時計の鎖に触れている。
三日目の夜、野営地で部下の一人が報告を上げた。
「王城の警備配置を確認しました。正門に近衛兵八名。東門に四名。庭園側は」
「庭園側は?」
「二名です。ただし、夜間は巡回が三十分間隔で」
「十分でございますよ」
マヌエルが懐中時計を開いた。
秒針の音が野営の焚き火の音に混じった。
「庭園側から入ります。巡回の合間は二十八分。私が城壁を越えてから、お嬢様を確保するまでに要する時間は七分」
部下が頷いた。
「残り二十一分で撤退。殿は六名。前衛六名がお嬢様と猫を確保して離脱。殿は迎撃に当たる者を足止めして、三十分以内に街道へ。合流地点は北の三叉路」
「お嬢様には、傷一つつけてはなりません」
声は穏やかだった。だが十二名の全員が背筋を正した。
「猫の方は、生きていれば多少の傷は構いません。ですが、息があることを必ず確認なさい。教皇猊下の儀に供するものでございますので」
焚き火が爆ぜた。作戦説明が終わると、十二名の空気が緩んだ。携帯食を囓りながら、焚き火の周りに散らばっていく。
マヌエルが懐から小さな紙包みを取り出した。
「ダリオ。お前の末の娘、来年が入学だったねぇ」
部下の一人が顔を上げた。
「は――覚えておいでで」
「聖都の第三学院に話を通してございます。推薦状は私の机に。戻りましたら、取りに来なさい」
ダリオが深く頭を下げた。隣の部下が肘で突いて、小声で何か言った。ダリオが鼻を啜った。
「レナート。奥方のお加減は」
「おかげさまで。マヌエル様に手配いただいた薬師のおかげで、熱が引きました」
「それは何より。薬代は気にしなくてよろしいですからねぇ」
白い革手袋が、もう一つの紙包みを別の部下に渡した。中身は干し果物だった。
「ユーリ、お前は甘いものが好きだったでしょう。聖都の市場で見つけましたの」
若い部下が紙包みを受け取って、仮面の方を見上げた。
「ありがとうございます」
マヌエルは炎を見つめていた。十二名の名前、家族構成、好物、持病、子供の年齢。全て頭に入っている。ヴェイン家の使用人四十二名を管理していた頃と、やり方は変わらない。
仮面の下で唇が動いていた。
五日目の朝、王都ルグランディアの城壁が見えた。
マヌエルは街道を外れて、城壁の外周を東に回った。鐘楼の屋根が見える位置。城壁の外側に立つ古い見張り塔の上に登った。足場の石が崩れかけていたが、仕込み杖を支えにして音もなく最上部に達した。
眼下に王城の庭園が広がっていた。月光が庭園の芝を青白く照らしている。
噴水が低い音を立てて水を吐き、薔薇の垣根が影を落としていた。庭園の東端に東屋があり、その向こうに城館の壁が続いている。
マヌエルは懐中時計を開いた。ぱちん。
――待つ。
二日間、マヌエルは見張り塔の上で庭園を観察し続けた。巡回の間隔。警備の交代時刻。窓に灯る明かりの位置と消灯の順番。誰がどの時間に庭園を歩くか。
二日目の夕刻、庭園に銀色の髪が見えた。月光のように白く光る銀の髪。長く、背中の半ばまで流れている。
肩に黒い影。小さな黒猫が乗っている。その後ろを、白い兎耳の侍女が半歩遅れて歩いていた。
マヌエルの指が懐中時計の鎖を握り締めた。
「お嬢様」
仮面の下で、口元が震えた。笑みではなかった。もっと複雑な何かが、口元の筋肉を引いていた。
銀髪の女が庭園の薔薇の前で足を止めた。黒猫が肩から降りて、薔薇の根元を嗅いでいる。兎耳の侍女が何かを話しかけて、銀髪の女が小さく笑った。
――前にお会いした時は暗がりでよく分かりませんでしたが、お美しくお育ちでございますねぇ。
目元から涙が出そうになって、仮面の縁がそれを堰き止めた。陶器の冷たさが頬に触れて、感情が引っ込んだ。
「よろしゅうございます」
翌日の夜に動く。
月が雲に隠れる時間帯を待った。庭園の巡回が交代する瞬間、二十八分の空白。マヌエルは見張り塔から降りて、十二名を二手に分けた。
「前衛六名。私と共に庭園へ。お嬢様と猫を確保した後、北門から離脱」
「殿六名。城館の東側で迎撃に当たる者を足止め。三十分で撤退。合流は北の三叉路」
十二名が頷いた。
「では参りましょう」
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