第211話 密書
使用人たちが廊下に戻り、食堂の扉が閉まった。拍手の余韻が消えて、食器の音と会話が戻った。
シャルロットが書類に向き直り、ルーシェがコーヒーを注ぎ足し、トールがこぼれたスキットルの中身をナプキンで拭いていた。穏やかな朝の続きだった。
カイルがコーヒーカップを置いた。
「ガーレン」
声が変わった。さっきまでと同じ低い声なのに、含まれている重さが違った。
全員の手が止まった。ガーレンがスキットルの蓋を閉じた。
「祝い事は後だ」
ガーレンの声は低く、平坦だった。包帯で固定された左腕をテーブルの上に置いて、懐から封蝋の割れた書簡を取り出した。
赤い蝋が乾いて半分剥がれている。
「教皇が動く」
食堂の笑い声が止まった。シャルロットがペンを置いた。
ルーシェが丸眼鏡を押し上げた。トールの背筋が伸びて、盾の革紐を無意識に握り直した。
ミナの手がテーブルの下で短剣の柄に触れた。
ガーレンが書簡をテーブルの上に広げた。
「結社の連絡網から傍受した密書だ。差出人の記載はない。だが暗号の形式と封蝋の紋章から、結社の最上位。教祖直々の指令と見ていい」
密書の文面が目に入った。古いアルシェロン書体で書かれた短い命令文。
「娘と黒猫の両方を確保せよ。婚約の式典の前に」
背筋が冷たくなった。ノクスの耳が伏せられた。
子猫の体が肩の上で硬くなるのが分かった。
「婚約が公になれば、リーラのセキュリティは格段に上がる。王妃候補を攫うのは国家への宣戦布告と同義だ。教皇はそれを避けたい」
ガーレンの指が密書の署名を叩いた。
「だから、式の前に動く。猶予は短い」
カイルが密書を見下ろしていた。青みがかった灰色の瞳に、文面の一字一字が映っている。
指輪をはめた左手がテーブルの縁を握っていた。
「マヌエルか」
「間違いない。教皇の実行部隊を率いるのは、奴しかいない」
マヌエル。
ヴェイン家の元執事。父ヴィクターに仕え、幼い頃の私を知っている男。
結社に寝返り、教皇の右腕として動いている。白い仮面と、銀の懐中時計と、完璧な敬語の下に何を隠しているのか分からない男。
「精鋭十二名。暗殺術と隠密行動の専門家だ。傍受した限りでは、北方街道から南下してくる」
ガーレンが地図を広げようとして、包帯の腕が引っかかった。
ルーシェが無言で地図の端を押さえた。シャルロットが書類を脇に寄せて、地図に目を落とした。
「対策を練らないと」
カイルが頷いた。
シャルロットが書類を閉じた。
「午後、対策会議を開く。全員参加よ」
朝食の残りが冷めていくのを、誰も気にしなかった。幸福の朝が、教皇の密書で終わった。
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