第210話 「昨夜、リーラに婚約を申し込んだ」
即位式の翌朝だった。食堂の長テーブルに全員が揃っていた。
トールの盾がテーブルの端にもたれかかり、ガーレンがスキットルの蓋を親指で弾いている。
シャルロットは書類を食べかけのパンの横に広げて、ルーシェが丸眼鏡越しにカイルの王冠の残留魔力について何か言いかけてはカイルに「朝食が先だ」と遮られていた。
ロウェナだけが壁にもたれて食卓には着かない。
私の左手の薬指に、指輪があった。昨夜テラスで嵌めてもらったばかりの金属が、まだ少し冷たい。
カイルの左手にも同じ意匠の指輪が光っている。
肩の上で、ノクスが銀の鈴を鳴らした。
カイルの手がテーブルの下で、私の手に触れた。
指先だけ。
軽く。
心臓がうるさかった。
もう昨夜からずっとこうだ。
テラスでカイルが指輪を取り出した瞬間から、まだ胸の奥がどきどきしている。
一晩経っても収まらない。
隣に座っているだけで顔が熱くなる。
いつの間にか、指先が絡まっていた。カイルの手のひらが私の手を包んでいる。
カイルがコーヒーカップを置いた。私の手を握ったまま、もう片方の手で。
「昨夜、リーラに婚約を申し込んだ」
テーブルの上の空気が止まった。
「受けてもらった」
カイルの声は低くて静かだった。
事実を報告するような声。
でも、握られている手のひらが少しだけ汗ばんでいた。
耳の先が赤い。このひとは顔に出さない代わりに、全部耳に出る。
嬉しかった。このひとも、緊張しているのだと分かって。
一秒。二秒。
トールの椅子が鳴った。
両足で床を蹴って立ち上がり、椅子の横の盾を引っかけてテーブルにぶつけた。
ガーレンのスキットルが今度こそ倒れた。
スキットルの中身が少しこぼれて、ルーシェが「あっ」と声を上げた。
「おめでとうございますっす!!」
声が食堂の天井に反響した。
壁の絵が揺れた気がした。
トールの目に涙が浮かんでいる。拳を握って、体全体で喜んでいた。
「カイルさん! リーラさん! おめでとうございますっす!!」
もう一度言った。
もう一度、食堂が揺れた。
ミナが椅子の上で背筋を伸ばしたまま固まっていた。
顔が赤い。
耳まで赤い。
首まで赤い。
「おめでとう」
声が震えていた。
怒っているのではない。
照れている。
ミナの右手がテーブルの下でスカートの裾を握り込んでいるのが見えた。
「本当に、絵本みたいな王様とお姫様になったのね」
小さな声だった。でも、聞こえた。
カイルが微かに頷いた。
シャルロットがパンを咀嚼したまま、書類から顔を上げた。
「遅い」
一言だった。
口元が緩んでいた。宰相の仮面が外れて、幼馴染の顔が覗いている。
「おめでとう。リーラ、約束どおりあたしが式の段取り全部やるわ」
私は少しだけ笑った。
目の奥が熱かった。
「ありがとう、シャロ」
「まだ早い」
カイルが低く言った。
「遅いのよ。式場の予約は三ヶ月前からしないと枠が取れないの。大聖堂はもう九月まで冠婚葬祭で埋まってるわ。今から動かないと年内に間に合わないのよ。あんた、王になったんだから、国事としての婚礼は政治日程に組み込む必要があるの。分かる?」
カイルが黙った。
シャルロットの目が光っていた。宰相としての本領と、幼馴染としての喜びが同時に発動している顔だった。
「任せる」
「最初からそう言いなさい」
シャルロットがペンを取り出して、書類の余白に何かを書き始めた。式場、日程、招待状の手配。宰相の仕事に婚礼の段取りが追加されていく音が聞こえた。
スキットルの蓋を弾いた。
ぱちん。
一度だけ。
「一生守れる女を見つけたな」
低い声だった。カイルを見て言った。
スキットルの蓋を閉じて、それきり黙った。
ルーシェが椅子から身を乗り出した。丸眼鏡がずり落ちかけて、慌てて押さえる。
「わあああ! 指輪見せて!!」
テーブルの上に身を乗り出して、私の左手を掴んだ。
「これ、古代魔法の残留値が、えっ、すごい、レガリア期の鍛造技法じゃないですか? 金属組成が現代の精錬法と違う……内側の刻印、これ古代文字ですよね? 王家代々って、何世代前から伝わってるんですか? あっ、いい、持って帰って分析したい」
「持って帰るな」
カイルが低い声で言った。
ルーシェが「少しだけ」と言いかけて、ガーレンに肩を掴まれて席に戻された。
ロウェナが壁から動かなかった。
腕を組んだまま、赤い瞳がカイルと私の手を見ていた。
指輪の光が壁に反射して、ロウェナの金髪の端をかすめた。何も言わなかった。
でも、目が、ほんの少しだけ、温かくなった。
唇の端が動きかけて、止まった。
それだけだった。
壁にもたれた姿勢のまま、腕を組み直して、視線を窓の外に移した。
ヴィオラが微笑した。深紅の髪が朝日に透けて、エルフの長い耳の先が光を弾いた。
カイルとシャルロットに向けた穏やかな笑みの後、体を少し私の方に傾けた。
「おめでとうございます」
声量が下がった。
テーブルの向かい側には届かない。私だけに聞こえる声だった。
「百年後も語られる婚礼になりますよ」
ヴィオラの目が細まっていた。
百年を軽々と生きるエルフの口から出た言葉は、社交辞令ではなかった。
私が見届けます、という意味だった。
ノクスが私の肩で大きく欠伸をした。
フィオレが紅茶のポットを持ったまま、私の隣に立っていた。白い兎耳がぴんと立って、目が大きく開いている。
「リーラお嬢様、おめでとうございます!」
声が弾んでいた。ポットをテーブルに置いて、両手を胸の前で合わせた。
「皆さん覚えてますか?」
「温泉の時、皆さんでカイル様のお話をしてたら、リーラお嬢様が真っ赤になって『早い!』って怒ってらしたの」
空気が変わった。
ミナが「あー!」と声を上げ、ルーシェが口を押さえて笑い出した。
顔に血が昇った。
「あれはっ! あの時は!!」
「何の話だ」
カイルが私を見た。
眉が僅かに寄っている。本当に分かっていない顔だった。
「何でもない!!!」
両手で顔を覆った。指の隙間から、テーブルの全員が笑っているのが見えた。
ガーレンまでスキットルで口元を隠しながら肩を揺らしている。ルーシェから聞いたのだろう。
「ほらね」
ミナが頬杖をついた。
目が細い。
「あたしたちの方が先に分かってたのよ」
「あたしなんかリーラと会った時から分かってたんだから」
シャルロットが書類から顔を上げて言った。
宰相の顔ではなかった。幼馴染の顔で、得意げに笑っていた。
シャルロットが椅子から立ち上がった。
「カイル、リーラ、おめでとう!」
手を叩いた。乾いた音が食堂に響いた。
トールが続いた。分厚い掌がぱんぱんと鳴って、テーブルが揺れた。
「末永くお幸せにっす!」
ミナが手を叩きながら、目を細めた。
「最高の王妃になるわよ、姐さん」
ルーシェが両手を合わせて、目をきらきらさせた。
「結婚式の魔法演出、あたしに任せてください!」
ヴィオラが静かに、でも確かに手を重ねた。穏やかな微笑だけで十分だった。
壁にもたれていたロウェナの腕が解けた。
二度だけ、手を叩いた。音は小さかった。
ガーレンがスキットルの蓋を弾いた。
ぱちん。
それがガーレンの拍手だった。
食堂の扉が開いた。
拍手の音を聞きつけた城の使用人たちが廊下から顔を覗かせていた。一人が拍手を始めると、二人、三人と続いて、廊下にまで拍手が広がった。
年配の侍女がエプロンで目元を押さえていた。
「カイルおぼっちゃま、ご立派になられて」
声が震えていた。
幼い頃のカイルを知っている侍女だった。隣の若い侍女が私に向かって深く頭を下げた。
「リーラ様。いえ、妃殿下。おめでとうございます」
妃殿下。その呼び方を向けられたのは初めてだった。
背筋が伸びた。拍手の中で、カイルの腕が私の腰に回った。
引き寄せられて、目が合った。青みがかった灰色の瞳が、近かった。
耳が赤いまま、でも目は逸らさなかった。私も逸らさなかった。
フィオレの目から涙がこぼれた。ポットを胸に抱えたまま、唇が震えていた。
「お嬢様、お幸せですね」
声が途切れた。白い兎耳がぺたんと伏せられて、両目を手の甲でぬぐった。
ノクスが肩の上で、小さく溜息をついた。拍手と笑い声がテーブルの上に溢れていた。
温かい時間だった。
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