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第209話 「いい二人だ」

 テラスの柱の影で、ロウェナが壁にもたれていた。身じろぎもせず、赤い瞳だけがテラスの方角を向いていた。さっきまでそこに二人がいたことを、見ていたのか。


 ロウェナは何も言わなかった。帽子を深く被り直して、壁から背を離した。杖をついて、大広間の出口に向かった。



 私とすれ違いざまに、一瞬だけ、帽子の縁の下の目が光った。



 泣いてはいなかった。



 でも、何か別のものが揺れていた。



 それが何か、分かる前に。ロウェナの背中は人波に消えた。



 大広間の時計が十一時を打った。祝宴が終わりに近づいている。


 テーブルの向こうで、トールが椅子の上で寝落ちしていた。


 ミナがその肩にナプキンをかけて、手が止まって、かけるのをやめて、自分の外套を代わりにかけた。


 それからすぐに席を立って、何事もなかったように歩いていった。


 私は席を立った。渡り廊下を歩いて、自室に向かった。薬指の指輪が服の袖に隠れているのに、重さだけはずっと感じていた。


 部屋の扉を閉めると、ノクスが肩から飛び降りて枕の上に丸くなった。鈴が鳴る。


 灯りを落として横になった。天井の染みがぼやけて見えた。



「ノクス」



「何だ」


「邪魔しないって言ったよね」


「寒かった」



「嘘」



「嘘じゃない。それに、あのまま放っておいたら、お前は接吻(キス)されていた」



「別に、よかったのに」



「よくない。俺の許可がいる」



 ぷっ、と吹き出した。止まらなかった。枕に顔を押しつけて、肩が震えた。


 ノクスの尾が枕の上で一度揺れて、止まった。



「ノクス」


「何だ」


「ありがとう」


「何が」


「全部」



 ノクスは答えなかった。


 前足を伸ばして、私の髪の端を一度だけ踏んで、離した。



 左手を持ち上げた。暗がりの中で、薬指の銀の環がかすかに光っていた。


 唇が勝手に緩んだ。



「にやけるな。気持ち悪い」



「見ないでよ」



 枕に顔を埋めた。熱い。テラスの風の冷たさも、カイルの額の温もりも、全部まだ残っていた。


 意識が沈みかけた時、声が響いた。部屋の中に。静かに。どこからともなく。



「リーラ」



 目を開けた。天井に光はない。声だけが、空気の中に在った。



「神さま」



「わしはお前が普通の幸せな人生を歩むことを望んでおったが。まさか王妃か」



 声は穏やかだった。呆れているようにも、感心しているようにも聞こえた。



「はい」





「今や、契約がお前の足かせになっているのではないか」





 布団の上で指を組んだ。薬指の銀が肌に触れた。



「私は間違っていたのかもしれん。お前にあの契約を背負わせたことは。力を隠し続ける重荷を――」



「いいえ」



 はっきりと言った。



 声が暗闇の中で響いた。



「間違っていません。カイルと家族になれるのも、契約があったからです」



 天井を見つめた。何も見えなかったが、気配だけがそこにあった。



「前世では皆、私を恐れていました。力があるというだけで。契約がなければ、この世界でも同じだった」



 ノクスの耳が動いた。目は閉じたまま、聞いていた。



「契約は、私が選んだのです」



 長い沈黙があった。部屋の空気が微かに重くなって、また軽くなった。



「リーラ。もうよい。契約を解除しても、わしは構わん。お前には幸せになってほしい。ただ、それだけじゃ」



「いいえ。解除はしません」



 声に力を込めた。



「契約も、私の人生の一部です。ノクスとの縁も、ヴィオラとの絆も、全部。契約があったから」



 沈黙が深くなった。気配が揺らいだ。何かを考えている。何千年も生きた存在が、言葉を選んでいる。



「そうか。わしはやはり、間違っていたかもしれん」



 声が消えた。気配が薄れていった。部屋の空気が元に戻った。蝋燭の残り香だけが漂っていた。



 ――神さまは、何を間違っていたと思ったのだろう。



 契約を結んだことを。



 それとも――



 答えは出なかった。


 瞼が重くなった。ノクスの寝息が枕元で聞こえた。規則的な呼吸。小さな胸が上下する音。


 薬指の指輪が、体温で温まっていた。もう冷たくなかった。



 眠りに落ちた。



 北の山脈の向こうで、星が一つ、流れた。



 夢を見た。焚き火ではなかった。白い部屋だった。石の壁に囲まれた、天井の高い部屋。窓が一つだけあって、そこから灰色の空が見えた。


 誰もいなかった。テーブルの上に冷えた茶が一杯。椅子は一つだけ。壁に掛かった外套は埃を被っていた。


 塔だった。二百年住んだ、あの塔。


 前世の私が立っていた。黒い髪が腰まで伸びて、金色の瞳が窓の外を見ている。


 何を待っているのか、もう何も来ないと知っているのに、窓から目を離さなかった。


 窓の外に誰かが立っている気がした。振り返ると、いない。いつもそうだった。二百年、誰も来なかった。


 指先が窓枠に触れた。石が冷たかった。



 ――こんな部屋に、もう戻らない。



 声にならなかった。でも体が知っていた。あの孤独はもう終わった。今の私には帰る場所がある。肩に乗る小さな体温がある。隣に立つ人がいる。


 塔が崩れた。石の壁が砂になって落ちて、灰色の空が青に変わった。風が吹いて、砂が散った。


 その下から、朝の光が差していた。


お読みいただき、ありがとうございました。

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