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第208話 「一晩だけの秘密」

 テラスの手すりに、黒い影が飛び乗っていた。さっきまでカイルと二人きりだったはずのテラスに。子猫サイズのノクスが手すりの上に座って、金色の目をこちらに向けていた。前足が手すりの縁を踏んで、尾が不満そうに揺れている。





「ノクス!?」





 飛び退いた。カイルの手が頬から離れた。冷たい夜風が間に入り込んだ。


 カイルが天を仰いだ。月に向かって長く息を吐いた。


 ノクスが二人の間に座った。前足を舐め始めた。悪びれない。



 「邪魔はしない」と言ったのを確かに聞いたのに。



「あんた、なんで今来るのよ」



「寒い。肩、貸せ」



 ノクスが手すりを蹴って、私の肩に飛び乗った。子猫の体重が鎖骨にかかって、前足が外套の縫い目を避けて肩甲骨の手前に収まった。いつもの場所だった。


 鈴が小さく鳴った。カイルが苦笑した。額に手を当てて、それから手を下ろした。



「お前には勝てないな」



「ニャ」



 ノクスが短く鳴いた。私にだけ聞こえた。



 ――勝てない、と。



 思わず笑った。カイルが困った顔でこちらを見た。



「何がおかしい」



「ノクスが、カイルには勝てないって」



 カイルの眉が上がった。それから、諦めたように息を吐いた。ノクスの尾が首を一周巻いた。子猫の体温が首筋に伝わった。


 小さいけれど、いつもの、ノクスだった。


 張り詰めていた何かが、ほどけていくのが分かった。さっきまで指先と唇が触れる距離まで近づいていたのに、今は肩の上で猫が欠伸をしている。可笑しかった。それでいて、胸の奥に灯ったものは消えていなかった。むしろノクスが間に割って入ったことで、ようやく息ができた。あのまま二人だけだったら、私は泣き続けていた気がする。


 三人でテラスに立った。北の空を見た。教皇国の方角に、星が光っていた。


 薬指の銀の環が冷たかった。でも馴染み始めていた。


 カイルの手が、手すりの上で私の手に重なった。指先が触れただけだった。それだけで、胸の奥が温かくなった。



「帰るか」



「うん」



「祝宴に戻らないと、シャロに怒られる」



「シャロ、怖いもんね」



 カイルが笑った。小さく、でも確かに笑った。即位式でも見せなかった笑い方だった。肩の力が抜けた笑い方。


 テラスの扉に向かって歩き始めた。並んで。カイルが半歩前ではなく、同じ速度で。指先がまだ触れていた。手を繋いでいるわけではない。でも離れなかった。


 渡り廊下の窓から月明かりが差し込んでいた。白百合の花弁が石畳に散って、その上を二人の影が通り過ぎた。


 廊下は長かった。柱の影が一定の間隔で床に落ちて、その縞の上を歩くたびに、薬指の重さを思い出した。祝宴の喧騒は壁の向こうにくぐもって、まだ遠かった。この廊下のあいだだけは、世界に二人と一匹しかいないような気がした。


 ノクスが肩の上で欠伸をした。


 金色の目が半分閉じて、尾の先が一度だけ揺れて、止まった。


 大広間の扉が近づいてきた。中から楽団の旋律と、笑い声と、グラスの触れ合う音が漏れている。


 カイルが立ち止まった。私も止まった。



「リーラ」



「うん」



「まだ、誰にも言わない。明日の朝、全員に言う」



「分かった」





「一晩だけ、二人だけの秘密だ」





 薬指の指輪に視線を落とした。青い石が月明かりを吸って、深い色に光っていた。





「――うん」





 薬指から指輪をそっと抜いた。手のひらの中で、青い石がまだ温かかった。ドレスの胸元に滑り込ませて、心臓の上に隠す。


 一晩だけ。


 扉を開けた。楽団の音が溢れてきた。蝋燭の光が目を打った。大広間に戻った。何食わぬ顔で。



 ――でも、指輪を外した薬指が冷たくて、それでも熱くて、自分の手がどこにあるか分からなかった。



 テーブルに戻ると、ミナがこちらを見ていた。じっと。目が鋭かった。



「何」


「何じゃないでしょ。顔」


「顔?」


「泣いた跡あるし、目が赤いし、あんた今」



 とっさに胸元を押さえそうになって、手を膝に戻した。



「何でもない」


「嘘」



 ミナの目が、こちらの表情を読もうとしていた。


 ノクスが膝の上から降りてこちらに戻ってきて、テーブルの端に飛び乗った。ミナの視線を遮るように座った。



「猫が邪魔」


「ニャ」



 ノクスが何食わぬ顔で前足を舐めた。ミナが諦めたように椅子の背にもたれた。


 でも口元が少しだけ緩んでいた。分かっている顔だった。聞かないでいてくれる優しさだった。


 祝宴の灯りの中で、上座のカイルと目が合った。一瞬だった。すぐに逸れた。


 でも、カイルの口元が動いていた。


 笑っていた。誰にも気付かれない程度の、小さな笑み。


 薬指が、熱かった。


お読みいただき、ありがとうございました。

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