第207話 「私のほうが、ずっと先に決めてた」
即位式の夜のテラスで、カイルが片膝をついて指輪を差し出していた。王妃になってほしい、愛してる、と。
信じられなかった。
――私は、九番目の使徒。
力を見せたら記憶を消される。王妃になんてなっていいのかな。
この人の隣に立つ資格が、私にあるんだろうか――。
でも。カイルの目が下からこちらを見上げている。怖がっているような目だった。
いつも強いこの人が、今だけは。
前世を含めれば途方もない時間を過ごした。
その全部の中で、誰かに「隣にいてほしい」と言われたことはなかった。
大魔女の隣に立てる人間がいなかった。
ずっと、一人だった。
「カイル」
喉の奥が熱かった。止められなかった。
「うん」
「私でよければ。私。カイルの隣にいたい」
カイルの目が見開かれた。息を呑む音が聞こえた。
それから、唇が動いた。
何かを言おうとして、声にならなくて、もう一度口を開いて、結局何も言わずに立ち上がった。
箱から指輪を取り出した。左手を取った。
カイルの手は温かかった。いつも剣を握っている手で、指だこがあって、爪の端に小さな傷跡が残っていた。
指輪が滑り込んだ。冷たい金属が薬指に触れて、馴染むまでに一呼吸かかった。
重かった。物理的な重さではない。歴代の王妃たちが身につけてきた時間の重さが、細い銀の環に凝縮されていた。
カイルの額が私の額に触れた。近かった。息がかかった。目を閉じたら睫毛が触れそうな距離で、カイルの体温が額から伝わってきた。
「ありがとう」
声が掠れていた。低くて、震えていて、泣きそうな声だった。カイルがこんな声を出すのを、初めて聞いた。
涙が止まらなかった。笑っているのに泣いていた。どちらなのか自分でも分からなかった。
「私のほうが、ずっと先に決めてたのに」
カイルの礼服の胸元を掴んだ。離さない。あの日、フィンを守れなかった日から、ずっと決めていた。もうカイルを失いたくない。
「カイル。もう絶対に私を置いてどこにも行かないで」
「リーラこそ、俺を置いていかないでくれ」
カイルの額が離れなかった。離れない。離せない。
テラスの風が二人の髪を揺らしていた。北の山脈の向こうに星が瞬いている。教皇がいる国の方角に。
もう少しだけ顔を傾ければ唇が触れる距離だった。
カイルの手が私の頬に触れた。涙を拭うように、親指が目の下を辿った。
「リーラ」
名前を呼ぶ声が、さっきまでと違った。柔らかかった。もう隠さなくていいと分かった人の声だった。
額を離して、顔を上げた。カイルの指が私の髪に触れた。銀の髪を耳にかけるだけの、静かな動作だった。
何も言わなかった。目だけがこちらを見ていた。
「なに――」
「うん」
でも手が離れなかった。耳にかけた髪を辿るように、指先が頬に触れたまま動かない。
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