第206話 「大事な話って、何?」
カイルが手すりにもたれて外を見ていた。王冠は外している。深紺の礼服のまま、剣の柄の傷を親指で撫でていた。考え事をしている時の癖だ。
振り返らなかった。
「来たか」
声が低かった。いつもの落ち着いた声だったが、語尾が微かに揺れていた。
「大事な話って、何?」
テラスの石畳を三歩進んだ。カイルの横に立った。手すりに手を置いて、並んで北の空を見た。
教皇国の方角だった。山脈の稜線が夜空に黒く切れて、その向こうに薄い雲がかかっている。星が雲の隙間から覗いていた。
沈黙が長かった。風が髪を揺らして、ドレスの裾が石畳の上を擦った。夜気が首筋に触れて、鳥肌が立った。
「カイル」
待ちきれなくて名前を呼んだ。
「リーラ」
カイルが前を向いたまま言った。
「あの演説を、覚えているか。教皇の」
「うん」
巡礼祭の広場。数万人の民衆がひざまずいた光景。教皇の声が隅まで届いて、涙を流す母親の顔。全部覚えている。
「あの人は、五十年かけてあの場所に立った。民を救い、国を作り、全員に愛されている」
「うん」
「俺はまだ何も成し遂げていない。王冠を被っただけだ。あの人に比べたら、何もない」
「そんなことない。カイルは」
「いい」
声が穏やかだった。遮る調子ではなかった。自分に言い聞かせるような響きだった。
「分かってる。俺はこれから積み上げる。時間がかかる。教皇を倒すのも、国を建て直すのも、何年かかるか分からない」
カイルが私の方を向いた。体ごとだった。手すりから背を離して、正面に立った。目を逸らさない。青みがかった灰色の瞳が、テラスの薄い月明かりの中でまっすぐこちらを見ていた。
「リーラ。俺はテラスで、約束した」
鼓動が耳の奥で鳴っていて、カイルの声と混ざって区別がつかなくなりかけた。
「うん」
「父上と兄上を取り戻したら、言葉にすると」
「父上は救えなかった。でも兄上は、戻ってきてくれた。そして、王位を俺に託してくれた」
カイルの声が少し低くなった。
「条件は、半分しか叶っていない。完璧じゃない。でも」
言葉が途切れた。
カイルの喉が一度動いた。寡黙な男が、言葉を探していた。
「毒杯の夜。あの杯を飲んでいたら、俺は死んでいた」
風が吹いた。カイルの前髪が額にかかって、すぐに流れた。
「お前に何も言わないまま」
「それが怖かった。初めて、死ぬのが怖いと思った。お前に何も伝えないまま死ぬのが」
唇を噛んだ。噛みすぎて痛かった。
「リーラ」
カイルが片膝をついた。テラスの石畳に。即位式で王冠を戴いたばかりの王が、跪いていた。
視界が滲んだ。涙が一筋、頬を伝って顎から落ちた。石畳に小さな染みを作った。
カイルが懐から箱を取り出した。小さな革張りの箱。蝶番が錆びかけていて、古い。
開いた。細い銀の台座に、青い石が一つ。大きくはないが、夜空に似た深い青をたたえていた。
代々の王妃が身につけ、母后から託されてきた指輪だった。
カイルの指が箱の縁を僅かに震わせていた。
「王妃になってほしい。愛してる」
飾りがなかった。
カイルらしかった。
テラスの風が止まった気がした。何もかもが止まって、カイルの声だけが石畳の上に残っていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語を見届けたいと思ってくださったら、ブックマークと★で、そっと背を押していただけると嬉しいです。毎日更新しています。




