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第205話 最初のダンス

 国葬の夜には味がしなかったのに、今日は味がする。大広間の喧噪の中で、トールがカイルの方を見て立ち上がった。


 ワイングラスを両手で持って、両手で持つな、とミナが小声で言ったが、カイルの前に歩いていった。



「カイル陛下!」



 声がでかい。大広間の半分が振り返った。



「即位おめでとうございますっす! 俺、ルグランドの盾として」


「トール」



 カイルがトールの言葉を遮った。


 穏やかな声だった。



「陛下はやめろ。お前はカイルでいい。相棒だと言ったろ」


「で、でも」


「お前が俺のことを陛下と呼んだら、俺はお前を『トール殿』と呼ぶぞ」



 トールが目を見開いた。それからぶんぶんと首を横に振って、ワイングラスの中身を半分こぼした。



「カイルさんで、カイルさんでいいっす!」


「そうしてくれ」



 カイルの口の端が動いた。笑みと呼ぶには控えめだったが、目元が緩んでいた。


 ミナがこぼれたワインをナプキンで拭きながら、「ほんと、あんたって奴は」と呟いていた。


 でも声は怒っていなかった。


 楽団が三曲目に入り、貴族の中からダンスに立つ者が出始めた。カイルはまだ上座で使節の挨拶を受けている。


 忙しそうだった。ワイングラスに口をつけて、ダンスの輪をぼんやり眺めていた時だった。


 大広間のざわめきが変わった。カイルが上座から歩いてきていた。


 挨拶の列を残したまま、大広間の中央を真っ直ぐに。使節も貴族も道を開けている。


 全員が見ていた。王がどこに向かっているのか。


 こちらに来ている。足が止まった。


 目の前で。手が差し出された。


 最前列の、右端の席の前で止まった。シャルロットが決めた席。



「リーラ・ヴェイン侯爵令嬢。一曲、お付き合い願えますか」



 大広間が静まった。



 楽団の調べだけが流れ続けている。


 即位後の最初のダンス。王が最初に手を差し出す相手。それが何を意味するか、この場にいる貴族で分からない者はいない。


 カイルはそれを分かっている。分かった上で、挨拶の列を捨てて歩いてきた。


 両手で頬を押さえた。熱い。


 顔が熱い。



「えっ」


「立てるか」



 カイルの目が真っ直ぐだった。


 王の目ではなかった。冒険者の目だった。


 不器用で、真っ直ぐで、それしか知らない男の目。でもやっていることは、この大広間の全員に向けた宣言だった。



 手を、取った。



 立ち上がった瞬間、肩の上でノクスが身じろぎした。低い声が耳元に届いた。



「行ってこい」



 ノクスが肩から飛び降りて、ミナの膝に着地した。


 ミナが「え、ちょっ」と言ったが、ノクスはもう丸くなっていた。


 カイルの手が腰に触れた。


 もう片方の手が、私の手を包んだまま持ち上げる。楽団が二人を見た瞬間、曲が変わった。


 陽気な祝宴曲から、ゆったりとした弦の旋律に。楽団長がシャルロットの方を一度だけ見て、頷いていた。


 大広間の中央に空間ができていた。踊り出した。


 カイルが驚いた顔をした。



「踊れるのか」


「年に二度くらいは夜会に出てますから」



 カイルが息を吐いた。笑ったのだと分かった。



「知らなかった」


「私も。カイルがこんなにリードが上手いとは」



 腰に添えられたカイルの手が、少しだけこちらを引き寄せた。夜会の礼儀正しい距離ではなかった。


 周囲が溶けていった。貴族の視線が、蝋燭の光が、楽団の音が、全部遠くなる。


 カイルの手と、カイルの目だけが近かった。


 大広間の端で、貴族の夫人が扇で口元を隠しながら隣に囁いた。


 声は聞こえなかったが、唇が動いているのが見えた。別の席では老齢の公爵が目を細めていた。


 使節の一人がワイングラスを傾けたまま動きを止めている。


 ざわめきの中から、声が聞こえた。


 「あの方が、陛下のお相手か」


 曲が終わった。弦の最後の一音が天井に昇って消えた。


 大広間に拍手が広がった。最初は一人、二人。


 それから波のように。上座の端で、シャルロットが満面の笑みを浮かべていた。


 書類を抱えたまま、隠す気もなく笑っている。あの席配置、全部計算だったのだ。


 最初のダンスまで見越していた。


 曲が終わって、カイルの手が離れた。



「ありがとう」



 カイルが小さく言って、上座に戻っていった。


 次の相手が待っている。サフィアル交易連合の特使の娘が、扇を閉じて立ち上がっていた。


 王の務めだ。外交の一環として、各国の貴族令嬢と一曲ずつ踊らなければならない。


 席に戻った。心臓がまだ鳴っている。


 手のひらに、カイルの手の温度が残っていた。ミナの膝の上で、ノクスが片目だけ開けた。



「顔、赤いぞ」


「うるさい」



 ミナがノクスの背中を撫でながら、目を潤ませていた。



「夢みたい。絵本の中の王様とお姫様が踊ってるみたいだった」


「ミナ」



 やめて、と言いたかったのに、声が裏返った。


 席の向こうから、シャルロットが書類を抱えたままにやりと笑った。



「最高に綺麗だったわよ、リーラ。宰相の仕事って、こういうのも含まれるのよね。これくらいの役得は許されるわ」



 顔が熱い。耳まで赤くなっているのが自分でわかった。


 全部あなたの思惑どおりでしょ、とは言えなかった。


 ミナがワインを一口飲んで、ダンスの輪を見た。


 カイルがサフィアルの特使の娘と踊っている。礼儀正しい距離。さっきとは違う距離。


 料理を食べた。温かくて、味がした。


 ミナがトールの食べ方を愚痴り、ノクスが膝の上で寝息を立て、楽団が何曲も入れ替わった。


 ふと気づいた時、上座が空だった。カイルがいない。


 いつの間にか。ダンスの輪にも、使節の列にも姿がなかった。


 トールが皿を持って戻ってきた。こちらの前で立ち止まって、首を傾げながら言った。



「リーラさん、カイルさんがテラスで待ってるっす。大事な話があるって」



 ミナが勢いよく顔を上げた。



「行きなさいよ、ほら」


「え、でも」


「でもじゃないの。行く」



 ミナの手が背中を押した。


 ノクスが膝から滑り落ちそうになって、ミナが慌てて片手で支えた。



「行ってこい。邪魔はしない」



 ノクスの声が低く聞こえた。


 金色の目が片方だけ開いている。寝ぼけた顔で、でも確かにこちらを見ていた。


 大広間を出た。渡り廊下の窓から夜空が見えた。


 白百合が夜風に揺れて、花弁が一枚、石畳に落ちていた。テラスへ続く扉の隙間から、冷たい風が吹き込んでいた。


 深く息を吸って、扉を開けた。


お読みいただき、ありがとうございました。

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