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第203話 鐘が鳴った

 即位式の朝は、鐘の音で始まった。


 王城の大聖堂。古い石壁が朝日を受けて白く輝き、両開きの大扉の奥に、祭壇までまっすぐ通路が伸びている。扉の前には衛兵が二列。


 中に入った瞬間、空気の重さが変わった。高い天井、左右に六本ずつ並ぶ石柱、その間のステンドグラスを朝日が抜けて、石畳に赤と青と金の光を落とす。白百合と矢車菊が祭壇を彩り、香が薄く煙っていた。


 大聖堂は、既に人で埋まっていた。貴族の正装、各国の使節、壁際に市民の代表。

 後方の隅には教皇国の使節が二名、白い法衣で表情を消して祭壇を眺めている。抑えた話し声が石壁に反響して、くぐもった波になっていた。


 最前列の右端に座った。シャルロットが決めた席だ。隣でミナが、緊張した顔で身を寄せてきた。



「姐さん、わたし、こんな立派な所、足が、震えてる」


「大丈夫。座っていればいいの」



 その向こうにトール、ヴィオラ、ルーシェ、フィオレ。少し離れてドルク一家、末娘が父の膝で周囲をきょろきょろ見回している。


 ルーシェの隣には、ロウェナ。黒い正装に金髪を結い上げ、黒レースのベール付き帽子を被っている。透ける隙間から赤い瞳が覗いて、黒と赤の取り合わせが妖艶だった。元結社の暗殺者には、もう見えない。どこかの貴婦人のようだった。


 祭壇に目を向けた。中央の玉座の右に、ヴァーンが立っている。白と金の礼服、胸に王家の紋章。杖はついていたが、車椅子ではなかった。

 痩せた手の甲に青い血管が浮き、左目の奥には呪いの残滓の赤い筋がまだ残っている。それでも、自分の足で立って、弟を待っていた。


 祭壇の左には、シャルロット。宰相礼服に式次第を手にして、前を向いている。昨夜まで机に埋もれていた人が、今朝は祭壇に立っている。インクの染みは、もうなかった。


 奥に大司教。白い法衣に金の刺繍、聖典を開いて控えている。


 鐘が三度鳴った。


 大聖堂の大扉が動いた。両開きの扉が軋んで開き、朝日が通路を白く染めた。


 光の中に、人影が立っていた。



 カイルだった。



 深紺の王族礼服に身を包んでいる。


 胸に王家の翼竜の紋章が銀糸で縫い取られ、肩章が朝日を受けて光っている。


 金色の髪を後ろに撫でつけて、額が見えていた。剣は佩いていない。



 目が合った。ほんの一瞬。



 カイルの視線が最前列の右端を掠めて、すぐに前を向いた。


 歩き始めた。石畳を踏む靴音が大聖堂に響いた。


 ステンドグラスの光が礼服の上を滑って色を変えていく。赤、青、金。


 光の帯が通路を横切るたびに、カイルの横顔が照らされて陰って、また照らされた。


 通路の左右に座った人々の顔を、一人一人見ながら歩いていた。視線を逸らさない。


 目が合った者は皆、小さく頷いて目を伏せた。


 胸の奥が、きつく締まった。



 あの人が、王になる。



 ずっと革の胸当てで剣を振っていた人が。


 ギルドの串焼きを歩きながらかじっていた人が。


 下層の祠に干し肉を供えていた人が。


 脇腹から血を流しながら「逃げろ」と言った人が。



 今日、王冠を戴く。



 通路を歩くカイルの背中を見ていた。姿勢が違う。


 冒険者の時とは別の重さが、肩にかかっている。それを引き受けて歩いている背中だった。


 カイルが祭壇の前に立った。ヴァーンと向き合う。兄弟が、正面から顔を見た。


 大聖堂の空気が静まった。声が消え、衣擦れの音が消え、咳一つない。


 香の煙だけが天井に向かって細く昇っていた。


 ヴァーンが大司教に目配せした。大司教が聖典を閉じて、王冠を捧げ持った。


 金と銀の合金に翼竜の意匠。五百年の重さを、大司教の両手がヴァーンに渡した。


 ヴァーンが王冠を受け取った。両手で持っている。指が震えていた。


 杖を手放して、王冠を両手で支えている。足元が微かに揺れたが、倒れなかった。



「カイル」



 ヴァーンの声が大聖堂に響いた。低く、掠れていたが、祭壇の石壁が声を拾って遠くまで運んだ。



「弟よ」



 カイルが口を開いた。



「兄上」



「この冠は。重い。父上が背負った重さだ。俺には、背負えなかった」



 ヴァーンの声が震えた。指が冠の縁を握り直している。金属が微かに鳴った。



「だが、お前なら。背負える。王国を救うために戦い、仲間を作り、ここに戻ってきたお前なら」



 ヴァーンの目が真っ直ぐカイルを見ていた。赤い筋が残る左目も、右目と同じ方向を向いている。


 呪いに蝕まれた三年間を越えて、兄が弟を見ていた。



「これを、弟に、託す」



 ヴァーンの両手が上がった。王冠がカイルの頭上に近づく。


 指の震えが止まらなかったが、冠を降ろす速度は一定だった。


 金属が髪に触れた。



 冠がカイルの頭に収まった。



 大聖堂が静まった。



 鐘は鳴らない。



 誰も声を上げない。


 ヴァーンの手がカイルの肩に置かれた。骨が浮いた指が、礼服の肩章の上に乗っている。


 ヴァーンが口を開いた。


 低く、カイルにだけ聞こえる声で。


 でも大聖堂の石壁が、その声を拾った。最前列まで届いた。



「頼んだぞ」



 カイルの目が微かに潤んだ。一瞬だけだった。奥歯を噛むように顎が引き締まって、すぐに消えた。



「引き受ける」



 大聖堂の鐘が鳴り始めた。


 一つ目の鐘が、天井の梁を震わせた。二つ目が重なり、三つ目が追いかけて、石壁が鐘の音で満ちた。


 ステンドグラスの色が振動で揺れて、赤と青と金が混じり合って白に近い光になった。



 ルグランド国王カイル・エル・ルグランドの誕生だった。



 拍手が起きた。最初に立ったのは、トールだった。椅子を蹴倒す勢いで両手を叩く。ミナが「ちょっと」と肘で突いても構わず叩き続け、その目は赤くなっていた。


 ミナ、ヴィオラ、眼鏡を拭うルーシェ、兎耳を立てたフィオレが続く。ドルクが末娘を膝から下ろすと、末娘は何が起きたか分からないまま、周りを真似て小さな手をぱちぱち叩いた。


 最前列から始まった拍手が、二列目、三列目、後方へ広がっていく。貴族が立ち、使節が立ち、市民が立った。教皇国の使節だけが、一瞬遅れて腰を上げた。



 大聖堂が揺れた。人々が拍手をしていた。


 両手を合わせて、涙が頬を伝っていた。


 国葬の時と同じだった。



 でも今度は。



 嬉し涙だった。



 カイルが振り返った。大聖堂の中を見渡した。


 左右の列を、後方の壁際を、天井のステンドグラスを。


 一人一人の顔を見た。


 トールの涙を見て、ミナの赤い目を見て、ヴィオラの微笑みを見て、ルーシェの濡れた眼鏡を見た。


 視線が移動して、最前列の右端に止まった。



 目が合った。



 今度は一瞬ではなかった。


 カイルの青みがかった灰色の瞳が、こちらを見ている。


 鐘が鳴り続けている。拍手が鳴り続けている。


 それでもカイルの視線は動かなかった。


 数秒。三秒か、五秒か。数えられなかった。


 心臓が痛かった。


 あの目は何かを言いたがっている。


 言葉にする前の、まだ形になっていない何かが、瞳の奥に見えた。



 カイルが微かに頷いた。



 それだけだった。唇も動かず、声も出さない。


 ただ頷いて、そして前を向いた。


 涙を拭えなかった。指が震えていたから。


 代わりに袖で目元を押さえた。侯爵家の作法としては最低の所作だったが、構わなかった。


 肩の上で、ノクスの体が温かかった。


 子猫の前足が鎖骨の上を一度だけ踏んで、離れた。何も言わなかった。


 横から視線を感じた。ロウェナだった。


 ベールの奥の赤い瞳がこちらを見ていて、ふいと逸らされた。


 ロウェナは何も言わなかった。


 帽子の縁の下で赤い瞳が細まって、唇がほんの僅かに動いたが、声にはならなかった。


 椅子にもたれ直して、天井を仰いだ。


 鐘の音が石壁から降ってきて、赤い瞳の上を通り過ぎていった。


お読みいただき、ありがとうございました。

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