第201話 北の星
夜。自室の窓辺で、北の空を見ていた。山脈の稜線が星の光で縁取られている。風は止んでいた。
ノクスが膝の上で丸くなっていた。子猫の体が膝の窪みにすっぽり収まって、呼吸のたびに背中が僅かに膨らんで縮む。
言語が戻ったとはいえ、まだ成猫の体には戻っていない。小さな体温が膝を通じて太腿を温めていた。
「ノクス」
「ん」
「明日だね」
「ああ」
「カイルが王になる」
「知ってる」
ノクスの尾が膝の上で一度だけ動いた。
「当然、お前はあいつの隣に立つんだろうな」
「え?」
ノクスが鼻から息を抜いた。
「お前しかいないだろう。カイル『王』の隣は」
胸の奥で何かが動いた。覚悟。その言葉が、教皇の演説と重なった。あの広場で数万人が祈っていた光景。
カイルが「勝てない」と言った声。
毒杯の夜。国葬の演説。全部がこの二文字に集約される。
「わからない」
ノクスの耳が倒れた。
「俺とお前は前世からの付き合いだ」
声が低かった。怒っているのとは違う。
「お前がどこを見ているか、誰を見ているか、全部わかる。フィンの時からずっとだ」
膝の上の子猫の体が、小さく震えた。
「わかっていて、わからないと言うな」
答えられなかった。口にしたら、もう引き返せない気がして。ノクスが目を閉じた。前足を顔に押しつけるようにして、丸くなった。
「好きにしろ。どうせ俺は、お前がどこに行こうがついていく」
少しだけ、気持ちが楽になった。
「ただし」
ノクスの片目が開いた。
「お前を抱える男は、まず俺の許可が要る。絶対だ」
笑ってしまった。声が出た。こんな場面で笑うつもりはなかったのに。
「覚えてるよ」
「忘れるな」
ノクスが私の膝の上で寝返りを打って、そのまま膝の布地をがりがりと引っ掻き始めた。
「ちょっと、爪」
返事はなかった。金色の目を閉じたまま、前足が規則正しく動いている。膝の上の体温がゆっくりと広がっていく。
窓の外の星が一つ、雲の端に隠れて消えた。爪とぎの音がいつの間にか止まっていた。ノクスの寝息が規則的に響いている。
椅子から立ち上がって、ノクスを枕の横に下ろした。子猫の体が枕の窪みに沈み込んで、前足が一度だけ空を掻いて、また丸くなった。
指先で耳の後ろを撫でた。小さな耳がぴくりと動いて、喉がかすかに鳴った。
「喋れるようになって、よかった」
返事はなかった。寝息だけが返ってきた。
「ありがとね。ノクス」
起きていたら絶対「気持ち悪い」と言われる。
だから寝ている今のうちに言っておこうと思った。毛布を引き上げて、目を閉じた。
門の前でルーシェがガーレンの胸に崩れた顔が浮かんだ。待つ側の苦しさを、私はまだ知らない。いつも自分が出かける側だった。
ノエルに「絶対帰ってくるね」と指切りして、自分から歩き出す側。
ルーシェが四日間立ち続けた門の重さを、私は知らない。
でも、もしカイルが帰ってこなかったら。
考えたくなかった。考えないようにして、考えてしまった。毒杯の夜。あの杯を飲んでいたら。
ガーレンが止めなかったら。
カイルの心臓が止まっていたら。指先が毛布を握り込んだ。
――駄目だ。
寝よう。目を閉じ直した。ノクスの寝息が枕元で続いている。その音だけを聞きながら、意識が少しずつ沈んでいった。
明日の朝が来る前に、もう少しだけ眠りたかった。北の空で、星が一つだけ雲の切れ間に戻っていた。
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