第199話 「ミナさんが姐さんって呼ぶ理由、わかるっす」
午後になって起きた時、ノクスはまだ枕の横で丸くなっていた。起こさないように寝台を降りて、顔を洗って廊下に出た。
中庭で、トールが盾を磨いていた。石のベンチに腰かけて、布で盾の表面を拭いている。
鉄板に聖都の路地裏での戦いでついた傷があった。聖騎士の剣を受けた跡が、鉄板の端に三本、平行に走っている。
「トール」
「あ、リーラさん。おはようございます、って、もう昼っすね」
「傷、大丈夫?」
「俺は平気っす。盾が少し凹んだだけっすから」
トールが盾を持ち上げて見せた。鉄板が僅かに歪んでいた。
聖騎士の一撃の重さが残っている。
「ガーレンさんはどうっすか」
「寝てた。ルーシェがずっと傍にいる」
「ルーシェさん、朝からずっとあの部屋っすよね。飯も二人分運ばれてたっす」
トールが布を盾に当てたまま、手を止めた。
「ガーレンさん、かっこよかったっすね」
「うん」
「俺、あの聖騎士に囲まれた時、正直、盾だけじゃ持たないって思ったっす。ガーレンさんが残ってくれなかったら、全員捕まってた」
トールの手が盾の裏に回った。木の芯に、小さな文字が彫られている。
妹の名前だ。
指がそこに触れて、止まった。
「ガーレンさん、あの時、死ぬ気だったのかもしれないっす」
声が低かった。
「俺にはあれ、できないっす。仲間を逃がすために一人で残るとか、情けないけど、怖くてできない」
ガーレンの脇腹から滲んだ赤が、目の裏に浮かんだ。もう二度と、あんな思いはしたくない。
「情けなくないよ、トール。私も怖かった。だから次は、誰も一人にさせない」
トールが盾を膝に戻して、また磨き始めた。布が鉄板の上を往復する音が、中庭の石壁に反響していた。
「やっぱかっこいいっす、姐さん」
「え?」
「ミナさんが姐さんって呼ぶ理由、わかるっす」
それだけ言って、トールは盾に目を戻した。
「明日、即位式っすよね」
「うん」
「カイルさんが王様になる。なんか、変な感じっす。ついこの前まで一緒に馬車で寝てたのに」
トールの声に緊張はなかった。ただ不思議そうだった。
一緒に旅をして、一緒に逃げて、一緒に馬車で寝た男が王になる。
トールにとっては、その距離感が自然なのだろう。
「トール」
「はいっす」
「ミナは?」
「ミナさんっすか? さっき厨房でパンかじってたっす。なんか怒ってましたけど」
「何に怒ってたの」
「知らないっす。俺が朝パン三個食ったら『食いすぎ』って言われたっす。三個は普通っすよね?」
「普通だと思う」
トールが安心した顔で頷いた。ミナが怒っていた理由はパンの個数ではない。
まだ宿屋の夜を引きずっているのかもしれない。
言わないでおいた。
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