第198話 「明日だな」
私は廊下を歩いていた。窓の外に中庭が見えた。
シャルロットが書類の束を抱えて、使用人と何か話しながら足早に渡り廊下を歩いている。即位式の準備が山積みなのだろう。
明日が即位式だ。カイルが王冠を戴く。ヴァーンから引き継ぐ。
教皇の演説を聞いた後で、聖騎士に追われて仲間が血を流した後で、何も答えが出ていない状態で、それでも、王になる。
肩の上でノクスが眠っていた。子猫の体温が鎖骨を通じて伝わっている。小さな呼吸が規則的で、金色の目は閉じたまま、尾が肩甲骨の上で丸まっている。
廊下の窓から、北の空が見えた。山脈の稜線が薄い雲に隠れている。あの向こうに、教皇国がある。
白い大聖堂と、銀髪の男と、数万人の祈りがある。あの演説の余韻が、まだ全員の中に残っている。五十年の善行が作った圧。
でも、さっき見た二人の指が重なっている光景が、まだ瞼の裏にあった。
あれでいいのだと思う。
答えが出なくても、隣にいる人がいれば。
ノクスの耳が寝息の中で一度だけ動いた。
夢を見ているのか、風を感じたのか。
部屋の扉を開けた。窓から午前の光が入っている。
寝台の上に毛布を広げて、ノクスを枕の横にそっと下ろした。子猫の体が沈み込んで、前足を折り畳んだまま呼吸を続けている。
明日だ。カイルが王になる。
教皇の前に無力を知った翌朝に、それでも玉座に立つ人が。
窓の外で、中庭の木の葉が風に揺れていた。北からの風だった。
目を閉じた。
明日のことを考えようとして、考えがまとまらなかった。ノエルとの何でもない朝を奪ったのは、あの声の主だ。薬草を摘んで、スープを作って、縁側で並んで座った日々。
あの日常を壊した手が、数万人に「共に生きよう」と語りかけている。
答えが出ない。
出ないまま、ノクスの寝息を聞いている。
毛布を引き上げて横になった。天井の木目が午前の光で白く浮いている。
目を閉じても、聖都の白い石畳と、ガーレンの脇腹から滲む血の赤が交互に浮かんだ。
いつの間にか眠っていた。
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