第197話 指先がまだ離せない
ルーシェは本を閉じた。膝の上で表紙を撫でて、息を吸って、止めて、吐いた。
指先がまだガーレンの手の上にある。離すタイミングを逃したまま、ずっとここにある。
読み上げていたのはレガリア期の術式体系。自分の論文の草稿だった。ガーレンが聞いているかどうかも怪しい内容を、ただ声を出していたかったから読んでいた。
声を出していれば、別のことを言わずに済む。でも、もう先延ばしにできない。
出発の朝、城門で言ったのだ。帰ってきたら大事な話がある、と。
自分から言った。
シャルロットに背中を押されて、ヴィオラに「大丈夫ですよ」と微笑まれて、ミナに「さっさと言いなさいよ」と睨まれて、それでやっと口に出した言葉だった。
ガーレンは「ああ」とだけ答えて、スキットルの蓋を弾いた。
あの時の横顔を、四日間ずっと思い出していた。
「あの」
声が裏返った。
ガーレンが枕から顔を上げた。脇腹の傷を庇いながら、こちらを見ている。視線が真っ直ぐで、逃げ場がなかった。
「えっと、順序立てて話しますね。前提としていや、前提はいいんです。結論から言うべきですよね。いやでも文脈がないと伝わらないというか、あの、つまり」
無意識に、言葉が出ていた。研究発表の癖だった。論旨を整理しようとして、整理するほど脱線する。いつもの自分だった。こういう時にこういう自分が出る。
ガーレンが黙って見ていた。待っている。急かさない。
「好きです」
出た。声が小さかった。自分でも聞こえたか怪しいくらい小さかった。
膝の上の本の表紙を見ている。顔を上げられない。
「あの時、ガーレンさんが声をかけてくれた時、待ってくださいって言いました。あれは嫌だったんじゃなくて、こういう時にどうすればいいか分からなかったから」
指が震えていた。ガーレンの手の上にある左手が、小刻みに震えている。
「シャロに相談しました。ヴィオラにも。ミナにも。全員に、あの人は本気だから受けろって言われて」
声が掠れた。鼻の奥が熱い。
「分かってたんです。答えは最初から決まってたんです。ただ、怖くて」
本が膝から滑り落ちた。拾わなかった。
「研究なら分かるんです。仮説を立てて、検証して、結論を出す。でもこれは検証できない。データがない。再現性がない。失敗したら取り返しがつかない」
笑おうとした。笑えなかった。
「こういうの全部、言い訳ですよね。分かってます。分かってるのに止められないんです、この口」
涙が落ちた。
本の表紙に染みが広がった。
ガーレンの左手が動いた。脇腹に痛みが走ったはずなのに、体を起こして寝台の縁に座り直す。ルーシェの手を取り、震えている指を大きな掌が包んだ。
スキットルの蓋を親指で弾き、金属音が部屋に響く。一口、呷った。
「報告書なら三行でまとめろって言っただろ」
ルーシェの視線が上がった。涙で滲んだ視界の中で、ガーレンの顔が近かった。笑っていなかった。でも目の奥が柔らかかった。
「お前は俺の女だ。もう一人で待たせない」
スキットルを寝台に置くと、両手がルーシェの頬に触れた。涙は拭わず、代わりに額を合わせる。
ルーシェの息が止まった。額の熱が伝わってくる。ガーレンの体温。
熱があるのか、それとも。
「二行じゃないですか、それ」
声が震えていた。泣いているのに笑っている。笑っているのに涙が止まらない。
「一行で済むが、お前に合わせた」
ルーシェの手がガーレンの胸元を掴んだ。包帯の端が指に触れた。力を入れたら傷に響く。分かっているのに、手が離せなかった。
「ずるい。そういうの、反論できないじゃないですか」
ガーレンの指がルーシェの髪に触れた。眼鏡が鼻先からずれて、直さなかった。
窓から朝の光が差し込んでいた。寝台の上に長方形の光が落ちていて、二人の影が重なっていた。
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