第193話 誰も話さなかった
馬車が街道を南に走った。聖都が遠ざかっていく。
教皇国の白い街道を逆戻りする馬車の中で、誰も口を開かなかった。しばらくして、トールが荷台の端に座ったまま呟いた。
「あの聖騎士、強かったっす。三人に囲まれたら、俺でも危ないっす」
ミナが横を向いた。
「あんなのが何十人もいるんでしょ。大聖堂の中には」
ヴィオラがガーレンの傷口に新しい布を当てながら答えた。
「聖騎士団は三百名。最精鋭の近衛は五十名です。――あの路地にいたのは、末端の巡回兵です」
ヴィオラが布を絞りながら、静かに付け加えた。
「聖騎士に、私の顔を見られました。元アルシェロン聖堂の異端神官だと気づかれた可能性があります」
全員が黙った。
末端であの強さだった。巡回の三名にガーレンが脇腹を裂かれた。近衛の五十名が本気で動いたら、どうなるか。ヴィオラの潜入ルートまで塞がるかもしれない。
カイルが前を向いたまま言った。
「武力じゃない。問題はそこじゃない」
手綱を握る手に力が入っていた。
「あの民衆の顔を見ただろう。教皇を信じて、教皇に救われて、教皇のために生きている人間が何十万人もいる。俺たちが教皇を倒したら、あの人たちの人生が崩壊する。それに、教皇のためなら死力を尽くして戦うだろう」
ミナが膝の上で拳を握った。
「どうすんのよ」
カイルの声が少しだけ静かになった。
「分からない。今は、分からない。だが、分からないまま放っておくわけにもいかない」
馬車が揺れた。車輪が石畳の継ぎ目を拾って、荷台のガーレンが僅かに顔をしかめた。
「まず、王になる。即位式を終わらせる。同盟を組む」
カイルの背中に向かって、私はガーレンの傷口を押さえたまま、何も言えずにいた。
あの人は折れない。
教皇の演説を聞いて、聖騎士に追われて、仲間が血を流して、それでも前を向いている。
私は、あの人の横に立てるだろうか。答えが出ないまま、馬車は南へ走り続けた。
ロウェナが馬車の端に座って空を見ていた。帽子の下から赤い瞳が覗いている。
何も言わない。ミナがロウェナの隣に座った。
「ロウェナさん、足どう?」
「あたいは平気さ。足が痛いだけさ。あり、が、とう」
最後の四文字だけ、声が小さかった。視線を逸らして、帽子のつばを引き下げた。
言い慣れない言葉を口にした後の、照れくさそうな横顔だった。
ロウェナの目がカイルの背中に向いていた。長い視線だった。ロウェナが何を考えているのか、私には分からなかった。
でもあの赤い瞳が、カイルの背中を見つめる時間が少しだけ長くなったのは、見えた。
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