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第190話 割り切れない

「帰ろう」



 小さな声が、私だけに届いた。



「まだ帰れない」


「嫌な、予感」



 ノクスの尾が首に巻きついた。子猫の体温が首筋に伝わる。


 小さくて、温かくて、けれど今は、その温もりすら心もとなかった。


 説教が終わった。


 大聖堂の鐘がもう一度鳴った。広場が歓声に包まれて、花弁が新たに舞い上がった。


 カイルが私の横に立っていた。拳を握ったまま、バルコニーを見つめている。顎の筋が浮いていた。



「俺が国葬で演説した時、ルグランドの民はどう思ったか」



 声が低かった。独り言のように聞こえたが、私に向けて言っている。



「三年間、王が機能しなかった国の新しい王。あの人は五十年、民を救い続けてきた」



 カイルの視線が教皇から離れなかった。



「勝てない。正面からは、絶対に勝てない」



 剣の話ではない。民心の話だろう。


 口を開きかけて、閉じた。あの演説を聴いた後で、何を言えばいい。


 カイルの横に立ったまま、黙って大聖堂を見上げた。


 教皇はすでにバルコニーから姿を消していた。


 広場では民衆が互いに抱き合い、祈り、歌い始めている。ガーレンが柱の影から合流した。手帳を懐に戻しながら、声を落とした。



「演説の内容に嘘はない。この国の福祉政策は教皇の肝煎りだ。数字で裏が取れる」



 誰も反論しなかった。


 広場の歓声が薄れ始めた頃、カイルが前を向いた。



「行くぞ。ガーレン、ヴィオラ。大聖堂の外壁を見ておきたい」



 ガーレンが頷いた。ヴィオラが帽子を深くかぶり直した。


 広場を離れた。巡礼者の流れに逆らって路地に入ると、歓声が壁に吸い込まれて遠くなった。


 石畳が白く、壁が白く、空が青い。聖都の空気は重かったが、匂いだけは清潔だった。


 カイルが先頭を歩いている。背中に言葉がない。教皇の演説を聞いた後の沈黙が、全員の足取りを重くしていた。


 ガーレンとヴィオラが大聖堂の裏門に向かった。


 カイルが路地の角で足を止めて振り返った。



「リーラ、トール、ミナ、ロウェナ。お前たちは広場の南側で待機だ。合流地点は南門の外の馬車。三十分で戻る」


「了解っす」



 トールが盾を背負い直した。ミナが頷き、ロウェナが壁にもたれて右足を浮かせた。まだ足を引きずっている。


 カイルの背中がガーレンとヴィオラと共に路地の奥へ消えた。


 三人の足音が白い石壁に吸い込まれて、すぐに聞こえなくなった。


 南門に近い路地裏の階段に腰を下ろした。ノクスが肩から降りて、膝の上で丸くなった。子猫の体は軽かったが、温もりだけは成猫の頃と変わらない。


 ミナが隣に座った。


 壁にもたれて、巡礼者の流れを見ている。



「ねえ、リーラ」


「うん」


「あたし、結社って聞いた時、もっと、悪い奴らだけが集まってる組織だと思ってた」



 ミナの声は小さかった。



「でもあの人、本当に民のこと考えてるでしょ。炊き出しも修道院も嘘じゃない。あの演説聴いた時、あたしの修道院のガナ婆のこと思い出した。子供たちに飯を食わせるために毎日走り回ってるガナ婆と、やってることが同じなのよ。規模が違うだけで」



 返す言葉が見つからなかった。ガナ婆の修道院と教皇国。片方は下層の古い建物、片方は大陸随一の白い城。


 でもミナの言う通りだった。子供にご飯を食べさせるという一点だけは、同じだった。



「だからって見逃すわけにはいかないのは分かってる。でもさ」



 ミナが両手で顔を覆った。



「分かってるのに、割り切れない」



 トールがミナの前にしゃがんだ。



「ミナさん、水飲むっすか」


「いらない」


「顔赤いっすよ」


「泣いてんの。放っといて」



 トールが黙って立ち上がった。ミナの横に立って、盾を背中に回したまま、広場の方を見張り始めた。何も言わなかった。ただ横にいた。


 私はミナの泣き顔を見ていた。


 あいつらは。私の家族を脅かした。


 ノエルとの暮らしを。父と母の平穏を。それだけで、結社を許す理由はない。


 でもミナの涙は、別のことを言っている。炊き出しの列に並んだ子供たちの顔。あれは嘘じゃなかった。あの子供たちのご飯を奪ってでも、教皇を倒すのか。



 ――私は、倒す。



 でもミナが泣いている理由も、わかってしまう。ノクスが膝の上で耳だけ動かした。聞こえているのだろう。何も言わなかった。


お読みいただき、ありがとうございました。

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