第189話 「壁が薄いんだよ」
翌朝、宿の食堂で全員が顔を揃えた。固いパンと薄いスープ。巡礼者向けの簡素な朝食だったが、トールだけが三人前を平らげている。
ロウェナが隣に座ってきて、耳元でひそひそ言った。
「昨夜は激しかったさね。壁薄いんさ、あたいまで目が覚めたさ」
「ミナさん、顔赤いっすけど、熱っすか?」
ミナの匙がテーブルに叩きつけられた。
「ち、違う! 黙れ。全員黙れ!」
トールはパンを噛みながら首を傾げた。何が起きたのかまだ分かっていない顔をしている。
カイルがため息をついた。いつもの朝だった。
ノクスが膝の上で前足を舐めていた。子猫の体が小さく揺れている。
私だけに聞こえる声で、低く一言。
「あの二人、いつまでやるんだ」
「知らない」
「楽しそうだな」
「楽しくはないと思う。少なくともミナは」
ノクスが尾を一度だけ揺らした。窓の外に、大聖堂の尖塔が朝日を受けて白く輝いていた。金の九聖章が空を貫いている。
今日、あの大聖堂で教皇が姿を現す。見るだけだ。情報を集めて、帰る。それだけ。
自分に言い聞かせて、椅子から立ち上がった。
カイルが食堂の入口で振り返った。
「出るぞ。フードを深くかぶれ。はぐれるな」
全員が立ち上がった。
椅子を引く音がまばらに重なって、巡礼者の朝食を終えた食堂に宿の主人の「いってらっしゃい」が追いかけてきた。
宿の前の石畳はすでに人で溢れていた。巡礼者たちが同じ方角へ歩いている。白い巡礼衣を着た老人、子供の手を引く母親、杖をついた男、荷車を押す商人。全員が大聖堂の方角へ、ゆるやかな流れを作っていた。
カイルが先頭に立ち、ガーレンが最後尾についた。その間にトールとミナ、ヴィオラ、ロウェナ、そして私とノクス。フードを目深にかぶって、巡礼者の群れに紛れた。
聖都アルシスの朝は、白かった。建物が白い。石畳が白い。壁も階段も柱も、全てが白い大理石で組み上げられていて、朝日が当たると街全体が光を放っているように見えた。
街路の角ごとに小さな祠があり、花が供えられている。どの祠にも枯れた花は一輪もなかった。
大聖堂前の広場に出た瞬間、人の密度が変わった。数万人。いや、もっと多い。
広場の端まで人が埋め尽くしていて、後方の丘の上にも立ち見の人影が連なっている。貴族の衣装もあれば、農夫の麻服もあり、子供を肩車した父親の横で杖をついた老婆がゆっくりと頭を垂れている。
花弁が舞っていた。誰かが屋根の上から撒いているのではなく、風に乗って大聖堂の方角から流れてくる。白い花弁だった。
甘い香りと、焚かれた香の煙が混じって、空気そのものが祈りを帯びているような匂いがした。
聖歌隊の合唱が広場の石壁に反響して、旋律が何重にも重なっている。澄んだ声が空に抜けていく。
カイルが足を止めた。私たちは広場の中程。前から三分の一あたりで立ち止まった。フードの下から周囲を見渡す。全員の位置を確認する。
ミナが隣にいた。トールがミナの後ろに立って、盾を背負ったまま周囲を警戒している。ガーレンはすでに広場の端の柱の影に移動して、手帳を開いていた。
ヴィオラは帽子の中に耳を隠したまま、大聖堂のバルコニーを見上げている。ロウェナが私の横に並んだ。杖を右手に持ち替えて、帽子のつばの下から赤い瞳で大聖堂を見つめている。
「見たことないさ。こんなにでかいとは思わなかったさね」
「大聖堂の規模は大陸随一です」
ヴィオラが低く答えた。
大聖堂の尖塔が空を突いていた。白い大理石の壁面に金の装飾が走り、ステンドグラスが朝日を受けて虹を散らしている。
バルコニーは大聖堂の正面、二階の高さにあり、赤い絨毯が敷かれていた。その奥に、まだ誰もいない。
聖歌隊の合唱が止まった。広場が、静まった。数万人の息遣いだけが残った。
咳一つ聞こえない。子供も泣かない。風が花弁を運ぶ音だけが、石畳の上を滑っていく。
バルコニーの奥の扉が開いた。白い大礼装の男が一歩踏み出した。
銀の髪を後ろに撫で付けている。深紅のマントが肩から流れ、首から黄金の九聖章が下がっていた。
痩身で背筋がまっすぐだった。遠目にも、立っているだけで空気の質が変わるのが分かる。
五十八歳と聞いていた。だが年齢を感じさせない。立ち姿に弛みがなく、両手を広げた所作には一切の無駄がなかった。
数万人が、同時にひざまずいた。波のように前列から崩れていって、広場全体が頭を垂れた。
立っているのは私たちだけだった。フードの中で息を止めて、周囲が膝をつくのに合わせてゆっくり膝を折った。
カイルの拳が握られていた。
「我が子らよ。顔を上げなさい」
低く深い声が広場に響いた。バルコニーから地面まで、一直線に届く声だった。訓練されている。
声量ではない。声の芯が通っていて、石壁に反響しても輪郭が崩れない。
民衆が顔を上げた。数万の目が、一人の男を見つめている。
「今年もまた、この日を迎えられたことを、神に感謝する」
教皇の声が続いた。穏やかで、押しつけがましさがない。
「この一年、飢饉があった。疫病があった。戦の影が差した国境の民もいる」
広場の空気が揺れた。思い当たる者がいるのだろう。隣の老婆が目頭を押さえた。
「だが、皆、生き延びた。今ここに立っている。それは、皆が互いを助け合ったからだ」
花弁が教皇の肩に一枚だけ止まった。払わなかった。
「修道院で子供たちを育ててくれた修道士。街道で炊き出しを続けてくれた民。病の村に薬を運んでくれた商人。神は、あなたたちの手を通じて、この国を守った」
声が少しだけ低くなった。
「私は教皇だが、私一人では何もできない。あなたたちの手が、この国を作っている」
広場の前列から歓声が上がった。最初は一人、二人。それが波紋のように広がって、数万の声が大聖堂の壁を叩いた。
涙を流す者がいた。手を合わせて祈る者がいた。子供を抱いた母親が目を閉じて何度も頷いている。
「来年もまた、この場所で会おう。共に生きよう」
歓声が爆発した。大聖堂の鐘が鳴り始めた。低い鐘の音が空気を震わせて、広場全体が揺れるような錯覚があった。
教皇がバルコニーの縁に歩み出て、両手を広げた。深紅のマントが風を受けて翻り、胸元の九聖章が陽光に灼けた。
――演説の後、教皇の説教が始まった。
生き方について。隣人について。許しについて。
民衆は真剣に聴いていた。涙を流す者もいる。膝をついたまま動かない老人がいた。両手を組んで空を仰いでいる少女がいた。
ノクスが肩の上で身じろぎした。子猫の体が微かに震えている。毛が薄く逆立っていた。金色の目がバルコニーから離れない。
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