第19話 「マヌエル、と申します」
トールが立ち上がっていた。
壁際から、盾を握ったまま。
両手が血で滲んでいる。膝が震えている。
それでも前に出てくる。ノクスがトールを見た。
金色の目が、一度だけ瞬いた。
「頼む」
私は一言だけ呟いた。
それだけでよかった。
トールの盾が、薄く光った。影狼の二本目の前足がトールの盾を打ち、トールの足が滑った。
だが、退かない。
「離さねえ!」
トールの盾が持ちこたえている。唇だけで紡いだ結界が効いている。
だが影狼の攻撃は止まらない。五本の足が交互に打ちつけて、盾と結界に亀裂を入れ続けている。
カイルが横から斬り込んだ。骨鎧の隙間、首の付け根を狙い、剣が入る。
浅い。骨が硬すぎる。
でも影狼がよろめいた。一瞬だけ、攻撃が止まった。
今だ。
唇が動いた。声を殺して、古い言語を三節。
ノクスが鞄から飛び出した。宙で体を捻り、前足を一歩踏み出して着地した瞬間に金色の目が見開かれた。
黒紫の光が影狼の胴を貫いた。
影で構成された体の中心を。影属性の上位魔法で崩壊させた。
影を影で壊す。私にしかできない術式を、ノクスの前足から放ったように見せている。
影狼の体が内側から崩れていく。五本の足が力を失って折れ、骨鎧が石畳に散らばった。
胴を満たしていた影が蒸発するように薄まって、赤い光が二つ、ふっと消えた。詠唱の最後の節を組んだ時、指が、私の意志より早く動いた気がした。
手の中の動きを、私自身が知らないところで誰かが選んだ、ような。
――気のせい、だろう。
「ノクス様が倒したっす!」
トールが盾を下ろした。両腕が震えている。
掌が赤かった。ノクスは前足を下ろして、毛を舐め始めた。
何事もなかったように。残骸の中に、黒い石の欠片が散らばっていた。
影黒曜石の欠片だ。影属性の魔力を蓄える希少鉱石。
今では採掘も精製も失われている。五つほど拾い上げて、鞄の底に滑り込ませた。
カイルは見ていたが何も言わなかった。
――拍手が、響いた。
乾いた、ゆっくりとした拍手。三度。
廻廊の上からの音だった。崩れかけた石柱の上、暗がりの縁に、人影が立っていた。
黒いフード。目元だけを覆う、白い陶器の仮面。
仮面の輪郭に細い金の縁取りが引かれていた。手は白い手袋。
腰の鎖の先に、銀の懐中時計が揺れていた。
「素敵」
男の声だった。年齢が読めない。
語尾だけが、妙に甘い。
「ようやく、お目にかかれましたノクス様」
ノクスの背の毛が逆立った。低い唸りが喉の奥から漏れた。
カイルが剣を抜いた。柄から手は離さない。
距離を測る目だった。
「誰だ」
人影が、片手を胸に当てて、ゆるく腰を折った。執事のような所作だった。
所作だけは。
「マヌエル、と申します」
仮面の男が首を傾げた。視線がノクスに向いた。
「九番目の御方。長きにわたる研究の甲斐がございました」
――九番目。
カイルの眉が、わずかに動いた。剣の柄を握る指が一瞬強くなって、すぐに戻った。
視線はマヌエルから外さなかった。ノクスの背の毛は逆立ったままだった。
「あの影狼は、お前か」
「お気付きで」
マヌエルが手袋の指先で仮面の縁をなぞった。
「何者だ」
カイルの切先が、わずかに上がった。
「内緒」
語尾が、甘く伸びた。トールが盾を構え直して、私の前に体を割り込ませた。
盾の縁が震えていた。
「リーラさんに、近づくなっす」
声が裏返りかけていた。それでも前に出た。
「あらら――勇ましいお坊ちゃま」
仮面の下で、笑みを深めた気配がした。
「九つ、揃いますの。やっと、揃いますの」
声が、歌うように伸びた。
「揃えば、神すらも、もう、お要りようにはなりませんわ」
息が、止まった。
カイルの剣の切先が、ぴくりと動いた。視線がマヌエルから外れなかった。
マヌエルは降りてこなかった。
腰の鎖をつまんで、銀の懐中時計を引き出した。蓋を開けて、覗き込んで、軽く閉じた。
「あら、いけない。喋りすぎましたわ」
語尾が、また甘く伸びた。
「お時間がございません。今宵はこれにて」
蓋の閉じる音が、廻廊にやけに響いた。
仮面が、こちらを向いた。目元を覆う白の表面に、松明の火が赤く光った。
「お嬢様」
――え。
「お父様とお母様に、よろしくお伝えくださいませね」
――心臓が一度、止まった。
何を言われたのか、頭より先に体が理解した。指先が冷えた。
鞄の底の影黒曜石を握りしめた手が、勝手に固まっていた。
「貴様」
カイルが踏み込んだ。仮面の男はもうそこにいなかった。
フードが翻った残像だけが、廻廊の暗がりに溶けていく。足音も、気配も残っていない。
カイルが剣の切先を下ろした。下ろしてから、ゆっくり鞘に戻した。
「逃がしたな」
「追えるっすか」
「深追いは危険だ。罠があるかもしれん」
ノクスが背の毛を寝かせた。
前足で耳のうしろを掻いて、それから私の足元に戻ってきた。
「お前」
ノクスが私だけに聞こえる声で言った。
「あの男、覚えがあるのか」
――分からない。
どこかで聞いたような声かもしれなかった。でも思い出せなかった。
記憶の奥のどこか、撫でただけで指が滑り落ちる場所に、似た音が残っている気がした。それだけ。
「分からない」
「そうか」
ノクスはそれ以上聞かなかった。
家族のことを、口にされた。
あの男は、ヴェイン家を知っている。父と母を知っている。
私が侯爵令嬢であることなど、社交界に出れば誰でも知れる。
冷たい指が、背筋を上から下になぞった。
トールが盾を下ろして、こちらを見ていた。何か言いたげに口を開いて、閉じた。
「先に進みましょう」
私は言った。
鞄の底で、影黒曜石を握る指が、まだ固まっていた。
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